- 2021-4-30
- ブログ
ハルバーシュタット Halberstadt -2- からの続きです
路面電車の車内から見える風景動画をもう一本アップします。が、テーマは鉄ちゃんネタではありません。戦災と復興の話です。
↑↑ 上の動画は、↓↓ の GoogleMapの航空写真では左下の赤い矢印から右上の矢印までの区間と推定されます(こういう推理ゲームって結構好きです(笑))。この動画や航空写真から想像されるのは「第二次世界大戦でか、なり酷い爆撃を受けて、町は徹底的に破壊されたんだろうなあ・・・」ということです。爆撃砲撃被災都市鑑定士(笑)の私の見立てなので間違いありません。
↓↓ 前回アップした写真で、駅と旧市街を含む町の全貌の航空写真を再掲しますが、これを見ても爆撃や砲撃による戦災や、旧東独の経済運営の失敗の被害は明らかです。左手の赤っぽい瓦屋根は旧市街のファッハヴェルクハウスですが、かなりまばらな状況です。これについてはノルトハウゼンの項で書きました。そして駅から旧市街までの間には、長方形の集合住宅と思しき建物で埋まっています。下の画像はクリックすると拡大するのご確認ください。
爆撃の状況は↑↑の✙✙をクリック下さい。出典はこちら Luftangriffe auf Halberstadtです。
この爆撃で市街地の 80%が破壊されたとのことです。そもそもハルバーシュタットは 1623年から 1994年まで一貫して、所謂 Garnisonstadt(軍隊の駐屯地)であり、また急降下爆撃機ユンカースの翼を製造する軍需工場もあり、また数キロほどの至近距離に囚人に強制労働をさせ武器を製造していたランゲンシュタイン・ツヴィーベルゲ強制収容所があるなど、爆撃のターゲットとなる要件はそろってはいました。まあ、5月 7日に無条件降伏することになる戦争の末期 4月 8日の時点で、これほどまでに手酷い爆撃が必要だったのか?2月 13日のドレスデン大空襲同様に議論のあるところかと思います。
ちなみに前回ご紹介した、ここから 10kmほど南にあるクヴェートリンブルクは「1945年 4月 19日に米軍部隊(RCT18)がほとんど戦わずに町を占領する 1週間前に、クエードリンブルク鉄道駅のワゴンに保管されていた V2ロケットの部品を町の外に持ち出すことに成功した。 これにより爆撃は行われず、戦時中の破壊は砲撃に限られた。」とのことです。なんと幸運なことでしょう!
4月 8日の空襲がもたらしたもの(出典はこちら)
このセクションの他のデータの根拠となっているハルトマン氏によると、4月 8日の空襲の結果、市内には合計 150万立方メートルもの瓦礫や破片が蓄積されたという。瓦礫の撤去では、3つの巨大な山ができた。19,000戸の住宅のうち、8,000戸が全壊、1,500戸が甚大な被害を受けた。5,400戸のうち、2,200戸が全壊、800戸が大なり小なりの被害を受けた。25,000人のハルバーシュタットの住民が家を失い、900のあらゆる種類の商業・工芸企業が破壊された。15の病院と軍用病院のうち、8つの病院が破壊された。15の学校が破壊または大きな被害を受けた。42の通りがなくなり、31の通りが部分的に破壊されました。電車の駅が破壊され、路面電車の線路や架線が破壊され、道路が通れなくなるなど、交通手段がなくなってしまった。ガス、水道、電気の供給が停止し、電話網も停止した。
瓦礫をすべて撤去するのに 15年かかった。1,500軒あったファッハヴェルクの家の約 3分の 1が破壊され、その中でも特に Oberstadtの特異な建築的価値を持つ家が破壊された。残っているファッハヴェルクの家、特に Unterstadtのシンプルな家のうち、さらに 3分の 1はドイツ民主共和国時代に荒廃したり、部分的に取り壊されたりした。残された建築物を保存し、都心の傷口を少しずつ塞いでいくための本格的な努力がなされたのは、1990年の共産主義崩壊後のことである。
亡霊は今でも見つけることができる。例えば、2015年 8月 12日、旧市街の端での建設作業中に発見された米国製爆弾の信管をちゃんと解除するために、ハルバーシュタットの 5,000人の住民が避難しなければならなかった。1952年から 1976年までに、市域で 62個の不発弾が解除されたが、1945年から 1951年までの数の多さについては信頼できる記録がなかった。
↓↓ そしてその後、旧東独に組み込まれた町のファッハヴェルクハウスは補修が殆ど行われることなく放置され、廃墟化するか放置されたままになり、崩壊への道を辿ることになります。
↓↓ 戦災で瓦礫の山となった地域や、爆撃を免れても放置されて廃墟化した家屋は撤去されて更地にし、下の画像のような「プレキャスト工法」によるアパートが建てられていったのです。ドイツ映画の好きな方には「善き人のためのソナタ」で主人公の秘密警察(Stasi)ゲルト・ヴィースラー大尉が住んでいたアパートや、「グッバイ・レーニン」で主人公アレックスの一家が住んでいたアパートがそれです。また、こちらにもロストックでの事例に関する記事をアップしてあります。
Von Deutsche Fotothek, CC BY-SA 3.0 de, Link
こうして歴史的な町の景観は失われ、殺風景な集合住宅の団地が出来ていったのです。また、ここでは爆撃で破壊され瓦礫となった煉瓦・石造りの建物と、木造家屋のことを書きましたが、適切な補修をしなければ、傷んでいくのは爆撃を免れた煉瓦・石造りの建物にしても、戦後に新築されたプレキャスト工法の集合住宅でも同じです。
下の動画は「Ist Leipzig noch zu retten ? ライプツィッヒはまだ救えるか?」という有名なドキュメンタリーで、ベルリンの壁崩壊の直に旧東独のテレビ局が放送したもの(予告編)です。
↓↓ 下の写真はハルバーシュタットの市庁舎の近くの旧東独時代に建てられた集合住宅です。状態はいい方ですが、外壁やベランダ辺りに傷みが見られます。一度くらいは補修が入ったのかもしれません。壁崩壊直後の東独の集合住宅はかなり悲惨な状態になっているものが至る所にありました。これもギリギリのタイミングで旧西独から資金が供給されて救われたのです。
↓↓ 最後に「これでもか!」と駄目押し的な画像をアップしておきます。旧東独の東南の端の方にあるゲルリッツ Görlitzですが、ここはナイセ川を挟んで西側半分はさしたる戦災を受けることなく終戦を迎えそのまま東独領土となり、東側半分は爆撃・砲撃で破壊された後、経済状況が旧東独より更に厳しいポーランドに組み込まれることになったのです。ここまでの説明の要素がすべて詰まった画像かと思います。訪問記は、このシリーズの第一回目としてアップしてあります。ポーランド側のレポートはここから。
ハルバーシュタット Halberstadt -4- に続きます