誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(28):★★★ハルバーシュタット Halberstadt -3-

ハルバーシュタット Halberstadt -2- からの続きです

路面電車の車内から見える風景動画をもう一本アップします。が、テーマは鉄ちゃんネタではありません。戦災と復興の話です。

↑↑ 上の動画は、↓↓ の GoogleMapの航空写真では左下の赤い矢印から右上の矢印までの区間と推定されます(こういう推理ゲームって結構好きです(笑))。この動画や航空写真から想像されるのは「第二次世界大戦でか、なり酷い爆撃を受けて、町は徹底的に破壊されたんだろうなあ・・・」ということです。爆撃砲撃被災都市鑑定士(笑)の私の見立てなので間違いありません。

↓↓ 前回アップした写真で、駅と旧市街を含む町の全貌の航空写真を再掲しますが、これを見ても爆撃や砲撃による戦災や、旧東独の経済運営の失敗の被害は明らかです。左手の赤っぽい瓦屋根は旧市街のファッハヴェルクハウスですが、かなりまばらな状況です。これについてはノルトハウゼンの項で書きました。そして駅から旧市街までの間には、長方形の集合住宅と思しき建物で埋まっています。下の画像はクリックすると拡大するのご確認ください。

✙✙1945年 4月 8日に行われた市街地への絨毯爆撃

コード No.GY 4822で、第 8空軍の第 1航空師団にハルバーシュタットを「第二目標」として攻撃するように命令が出された。この目的のために指定された 215(一説には218機)の B-17爆撃機は、239機の P-51長距離戦闘機の護衛を受けた 339機の B-17のサブフォースとして、4月 8日にドイツ中部の目標に向かった。イギリス中部のベッドフォード周辺の基地を離陸したのは午前 6時 15分。215(または218機)の B-17グループの攻撃目標は、公式には優先順位 1の Leopoldshall bei Staßfurtとされ、代替目標として優先順位 2のハルバーシュタットが指定された。 モスキート偵察機が Leopoldshall bei Staßfurtの上空に霞がかかっていると報告したため、ハルバーシュタットが優先された。ハルトマンは、Leopoldshall bei Staßfurtの目標は欺瞞に過ぎず、ハルバーシュタットがこの大規模な爆撃機群の実際の任務だったのではないかと考えている。

午前 11時 10分にハルバーシュタットで航空警報が鳴らされ、午前 11時 31分に最初の爆撃機が市の上空に現れ、煙弾で目標を示した後、高度 6700メートルから 504トンの大爆発弾と 50トンの焼夷弾の投下を開始したのである。第 8空軍の軍務日誌によると、爆弾搭載量は合わせて 595トンだった。イギリス独自の「ファン・タクティクス」(「死のファン」)が用いられ、高い命中率と可能な限りの破壊を達成することが求められた。爆撃機クルーのオリエンテーションポイントは、ハルバーシュタットの南にあるリセウム(ケーテ・コルヴィッツ・ギムナジウム)の著名な建物で、ターゲットエリアは街の中心部に設定されていた。

6機の爆撃機グループが 11時 31分から 11時 54分まで、対空砲に邪魔されることなく、コンパスの南の方向から数回に分けて攻撃し、計画通りに市街地を破壊したのである。焼夷弾には、ガソリン、ビスコース、マグネシウム粉を混ぜたものが合計 50トン詰められていた。AN-M47型の液体焼夷弾、棒状焼夷弾、リン系焼夷弾なども使用された。最初に投下された爆弾は、屋根を覆い、窓を砕き、家の壁を切り裂いた。そして、焼夷剤は、燃焼性が高く、密集して建てられたファッハヴェルクハウスの町に山火事を発生させ、消火活動は困難で、より多くの建物を破壊した。市街地では、個々の火災が大規模な火災へと発展していった。ハルバーシュタット住民のシュピーゲルスベルゲ方面への逃避行は爆撃され、護衛戦闘機の攻撃を受けた。B-17爆撃機編隊は午後 3時頃、死傷者を出すことなくイギリス中部の基地に着陸した。 爆撃により25,000人が家を失った。

クレブスヘーレの消防署が破壊されたハルバーシュタットの自衛消防隊のほか、ハインブルクに移送されてきたハーナウやドルトムントの職業消防隊、周辺の町や村の自衛消防隊、そこの医療関係者なども、放たれた火炎の中で救助や消火活動に参加した。また、フランス人やイギリス人の捕虜も救助活動に参加した。また、多くの住宅、半壊した駐屯地病院、グライムハウスなども全焼を免れた。合計 60kmの水道管が破壊されていたため、消火水はホルテンメ、クルクグラーベン、室内プール、消火池、爆弾のクレーターなどから、一部は「バケツリレー」で集めなければならなかった。街は 3日半も燃え続けた。道路は大量の瓦礫で大きく塞がれた。時間差信管を持つ爆弾の多くは、瓦礫の片付け作業中に計り知れないほどの爆発を起こした。

Halberstadt Trümmerfrauen.JPGCC BY 3.0, Link

1945年の廃墟となったハルバーシュタットの街、Trümmerfrauen(瓦礫を片付けて町の復興に貢献した女性たち)の記念碑。

市立病院は無傷だったが、軍の病院はほとんどが全壊または半壊した。こうして負傷者はフェルゼンケラーや他の発掘された洞窟、周辺の団地の救急病院、さらにはクルスベルゲの地下兵器工場に運ばれた。

死体の回収は、暑さで腐敗が進み、伝染病の危険性もあるため、できるだけ早く行わなければならなかった。墓地には急遽、大量の墓が掘られた。特にワゴン車は、あらゆる交通手段を駆使していた。輸送と「埋葬」は、主に棺を使わずに行われなければならなかった。縮小された死体は箱に集められた。サルベージ分遣隊には、ランゲンシュタイン・ツヴィーベルゲ強制収容所の囚人もいた。彼らは 4月 12日のアメリカ占領後、NSDAPのメンバーに取って代わられた。その後数週間は、町の他の部分にも凄惨な臭いが漂っていた。

町の歴史家でハルバーシュタットの名誉市民であるヴェルナー・ハルトマンによると、4月 8日はテロ爆撃だったという。

爆撃の状況は↑↑の✙✙をクリック下さい。出典はこちら Luftangriffe auf Halberstadtです。

この爆撃で市街地の 80%が破壊されたとのことです。そもそもハルバーシュタットは 1623年から 1994年まで一貫して、所謂 Garnisonstadt(軍隊の駐屯地)であり、また急降下爆撃機ユンカースの翼を製造する軍需工場もあり、また数キロほどの至近距離に囚人に強制労働をさせ武器を製造していたランゲンシュタイン・ツヴィーベルゲ強制収容所があるなど、爆撃のターゲットとなる要件はそろってはいました。まあ、5月 7日に無条件降伏することになる戦争の末期 4月 8日の時点で、これほどまでに手酷い爆撃が必要だったのか?2月 13日のドレスデン大空襲同様に議論のあるところかと思います。

ちなみに前回ご紹介した、ここから 10kmほど南にあるクヴェートリンブルクは「1945年 4月 19日に米軍部隊(RCT18)がほとんど戦わずに町を占領する 1週間前に、クエードリンブルク鉄道駅のワゴンに保管されていた V2ロケットの部品を町の外に持ち出すことに成功した。 これにより爆撃は行われず、戦時中の破壊は砲撃に限られた。」とのことです。なんと幸運なことでしょう!

4月 8日の空襲がもたらしたもの(出典はこちら)

このセクションの他のデータの根拠となっているハルトマン氏によると、4月 8日の空襲の結果、市内には合計 150万立方メートルもの瓦礫や破片が蓄積されたという。瓦礫の撤去では、3つの巨大な山ができた。19,000戸の住宅のうち、8,000戸が全壊、1,500戸が甚大な被害を受けた。5,400戸のうち、2,200戸が全壊、800戸が大なり小なりの被害を受けた。25,000人のハルバーシュタットの住民が家を失い、900のあらゆる種類の商業・工芸企業が破壊された。15の病院と軍用病院のうち、8つの病院が破壊された。15の学校が破壊または大きな被害を受けた。42の通りがなくなり、31の通りが部分的に破壊されました。電車の駅が破壊され、路面電車の線路や架線が破壊され、道路が通れなくなるなど、交通手段がなくなってしまった。ガス、水道、電気の供給が停止し、電話網も停止した。

瓦礫をすべて撤去するのに 15年かかった。1,500軒あったファッハヴェルクの家の約 3分の 1が破壊され、その中でも特に Oberstadtの特異な建築的価値を持つ家が破壊された。残っているファッハヴェルクの家、特に Unterstadtのシンプルな家のうち、さらに 3分の 1はドイツ民主共和国時代に荒廃したり、部分的に取り壊されたりした。残された建築物を保存し、都心の傷口を少しずつ塞いでいくための本格的な努力がなされたのは、1990年の共産主義崩壊後のことである。

亡霊は今でも見つけることができる。例えば、2015年 8月 12日、旧市街の端での建設作業中に発見された米国製爆弾の信管をちゃんと解除するために、ハルバーシュタットの 5,000人の住民が避難しなければならなかった。1952年から 1976年までに、市域で 62個の不発弾が解除されたが、1945年から 1951年までの数の多さについては信頼できる記録がなかった。

↓↓ そしてその後、旧東独に組み込まれた町のファッハヴェルクハウスは補修が殆ど行われることなく放置され、廃墟化するか放置されたままになり、崩壊への道を辿ることになります。

Fachwerkhäuser in Halberstadt, DDR-Zeit, 1985.jpgCC BY-SA 3.0, Link

↓↓ 戦災で瓦礫の山となった地域や、爆撃を免れても放置されて廃墟化した家屋は撤去されて更地にし、下の画像のような「プレキャスト工法」によるアパートが建てられていったのです。ドイツ映画の好きな方には「善き人のためのソナタ」で主人公の秘密警察(Stasi)ゲルト・ヴィースラー大尉が住んでいたアパートや、「グッバイ・レーニン」で主人公アレックスの一家が住んでいたアパートがそれです。また、こちらにもロストックでの事例に関する記事をアップしてあります。

Fotothek df n-07 0000047.jpg
Von Deutsche Fotothek‎, CC BY-SA 3.0 de, Link

こうして歴史的な町の景観は失われ、殺風景な集合住宅の団地が出来ていったのです。また、ここでは爆撃で破壊され瓦礫となった煉瓦・石造りの建物と、木造家屋のことを書きましたが、適切な補修をしなければ、傷んでいくのは爆撃を免れた煉瓦・石造りの建物にしても、戦後に新築されたプレキャスト工法の集合住宅でも同じです。

下の動画は「Ist Leipzig noch zu retten ? ライプツィッヒはまだ救えるか?」という有名なドキュメンタリーで、ベルリンの壁崩壊の直に旧東独のテレビ局が放送したもの(予告編)です。

↓↓ 下の写真はハルバーシュタットの市庁舎の近くの旧東独時代に建てられた集合住宅です。状態はいい方ですが、外壁やベランダ辺りに傷みが見られます。一度くらいは補修が入ったのかもしれません。壁崩壊直後の東独の集合住宅はかなり悲惨な状態になっているものが至る所にありました。これもギリギリのタイミングで旧西独から資金が供給されて救われたのです。

↓↓ 最後に「これでもか!」と駄目押し的な画像をアップしておきます。旧東独の東南の端の方にあるゲルリッツ Görlitzですが、ここはナイセ川を挟んで西側半分はさしたる戦災を受けることなく終戦を迎えそのまま東独領土となり、東側半分は爆撃・砲撃で破壊された後、経済状況が旧東独より更に厳しいポーランドに組み込まれることになったのです。ここまでの説明の要素がすべて詰まった画像かと思います。訪問記は、このシリーズの第一回目としてアップしてあります。ポーランド側のレポートはここから。

ハルバーシュタット Halberstadt -4- に続きます

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