誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(91)★★★リュープツ Lübz -5-

リュープツ Lübz -4- からの続きです

この建物も健在でした。窓の建付けなどは多少変更されてはいますが、建物自体はそのまま残っています。1990当時は「K(Konsum)」の売店だったようですが、今はハンドバッグなどを売る店になっています。

1990年の写真には左手に Fachwerkの家屋が写っています。こういうのが残っているということは、少なくともこの辺りは戦災を免れたということですね。

さて、最初に伏線を張った「キリル文字の謎」の話をします。下記に 2023年にアップした「ドイツ放浪記(36):キリル文字の謎」をそのまま引用します。

今回の放浪は、これまで行ったことのない町が中心だけど、中には行ったことがあっても気になることがあって再訪・再々訪という町もあります。ここは後者の事例。

とある町の周縁部のジャンクションに道標があって「Parchim 14.4km」「Plau 16.2km」とあります。今気が付きましたが、1990年の夏、まだ旧東独だったころの道標は「小数点以下一桁」まで数字が書かれてあったんですね・・・

さて、ポイントはそこではなく、後ろの建物の窓枠の上にキリル文字で「ПАРХИМ」とあります。ドイツ語にすると「Parchim」となりますが、この時点ではまだ駐留していたワルシャワ機構軍のロシア人兵士向けの道標だったんだろうと思われます。

ちなみに窓の右横には「BRIEFEINWURF(手紙投函)」という文字が見えることから、ここは郵便局と推察されます。

↑↑ 上の写真は GoogleMapから借用したもので 2015年撮影のもの。建物の角に 1990年に撮影した時と同じキリル文字の道標が見て取れます。↓↓ 更に下の写真は独語版 Wikipediaのこの町の項目から借用したもので 2015年撮影のもの・・・やはりキリル文字の「ПАРХИМ」がはっきりと見て取れます。

これ、どういうことなんだろう?1990年に撮ってから 25年間も壁に描かれた状態が変わっていない道標・・・?意図的に保存しているのでしょうか?だとしても、キリル文字のロシア語をなぜ?普通は占領軍としてのワルシャワ条約機構軍が撤収したのなら、その痕跡なんて消してしまいたいと考えるのが普通なのでは?

ソ連軍兵士の慰霊碑や墓地などは条約で撤去しないことになっているそうだけれど、こんな道標の文字にそんな条約は適用されるものではないように思うけど・・・

ということで、気になるので今回再訪して確認してきました。しかし・・・こんなことの為にドイツに行って半日潰すかね~(笑)なんと物好きな(笑)・・・でも、いいんです!今回は「気になることは全部やる」というのがコンセプトの放浪なので(笑)

そして・・・やはり、そのままの状態で存在することを確認しました!しかし・・・一体なぜ?これは市の観光局あたりにメールで問い合わせてみようと思います。ちなみに、もう一つの左手のキリル文字は「плау」とあることから「Plau am see」を指し示しているものと推察されます。

リュープとあるのは「リュープツ Lübz」のことです

リュープツ Lübz -6- に続きます

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