誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(36):★★★ルードヴィッヒスルスト Ludwigslust -6-

★★★ルードヴィッヒスルスト Ludwigslust -5- からの続きです

この章の冒頭に書きましたが、シュヴェリーンとルードヴィヒスルストを結ぶ道路は「定規で引いたような(不自然な)直線」です。こういうのは軍用道路ではないかと推察されますが、拡大して見ると「Standortübungsplatz Stern-Buchholz」とあり、また下の方に滑走路跡のようなものも確認できます。

画像はクリックすると拡大します。

この辺りの地名をキーにいろいろ検索すると「NVA Schwerin Stern-Buchholz, Fla-Raketenregiment 8,Osa-AK, FRR 8」という動画にヒットします。東独人民軍のミサイル部隊の基地だったようです。↓↓これは 2002年 6月に撮ったものですが、既に撤収・放置され廃墟となっていました。

そういえばこのあたりは、1990年 4月以降、日本人でも国境でビザを取得し、自由に東独をドライブ出来るようになって以来、何度か通った記憶があります。旧東独には「ワルシャワ条約機構軍(実質的にソ連赤軍)の駐屯地」が多数あった訳ですが、東西ドイツが統一すると用済みになるとはいえ、ソ連に撤収するには膨大な費用と、帰還兵士達の住宅や仕事を創り出す必要があり、当面は旧東独に留まっていました。

最終的にはドイツが「思いやり予算」的な資金を拠出して撤収が実現するのですが、それまでの間の駐留軍は目的を失い、士気も低下し、規律も緩んでいたようで、カラシニコフ銃や弾薬などの武器や物資の横流しなどが横行していたようです。私が車で基地の横を通りがかった時も、遠くから白い棒のようなものを振っている兵士が大勢並んでいるのが見え・・・一瞬検問かと身構えたものの、そういう殺気は無く・・・近づいてみたら「煙草のカートン」を振り回して「買ってくれ、安いよ(兵士価格で無税と想像)」ということがしばしばありました。冷戦の後始末の風景でした。

旧東独駐留ソ連軍の情報はこちらにあります。

KZ Wöbbelin

さて、例の直線道路を、ルードヴィヒスルストからシュヴェリーン方向に 5kmちょっと北上したところに「Mahn- und Gedenkstätten Wöbbelin」という文字が見えます。

ここは「KZ Wöbbelin」という強制収容所の跡地で慰霊の場所です。独語 Wikipediaによれば「ヴェッベリン強制収容所は、ノイエンガンメ強制収容所に設置された最後のサブキャンプ(支所)だった。1945年 4月中旬からは、解体された強制収容所からの避難輸送のためのレセプションキャンプとして使用された。この強制収容所は、グロース・ラーシュ村のヴェッベリンとルートヴィヒスルストの間に位置し、1945年 2月 12日から 5月 2日までの 10週間にわたって存在した。」とあります。僅か 10週間だったわけですが、酷い設備で大勢の犠牲者が出たようです、また戦後はソ連軍の収容所として再利用され、そこでも多くの犠牲者がでました。

Jo Jastramによる「死の行進(Todesmärsche)の犠牲者に捧げた追悼のモニュメント」ですが、私が訪問した 2002年 5月 20日の少し前に、心無い者達によって汚され、かなり傷んでしまいました。大量の花束はそれに対するリアクションと思われます。現在は元通りに修復されています。

(画像は Wikipediaより(Von Concord – Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0)クリックすると拡大します。

↓↓クリックするとスライドショーになります。

Theodor Körner (Schriftsteller)

「(カール・テオドール・ケルナー(Carl Theodor Körner)生誕:1791年9月23日ドレスデン、没:1813年8月26日 Forst Rosenow(Lützow近郊))は、ドイツの作家であり、自由の戦士である。愛国的な詩と、ナポレオンとの解放戦争で Lützowscher Freikorpの一員として早死にしたことで、国民的な英雄となった。代表作には、詩「リュツォウの野生の狩り」、作品集「竪琴と剣」などがある。」(独語 Wikipediaより)

またサイクリングのサイトには「・・・ドイツの歴史の矛盾が、ヴェッベリン記念・追悼施設ほど露わになることはない。ドイツの詩人テオドール・ケルナーの生涯を展示で 1791年~1813年の生涯で、詩人・愛国者そして「英雄アイドルへの昇格」が紹介される一方で、1965年以来、ヴェッベリン強制収容所の歴史も紹介されている。

1813年8月27日、Lützowscher Freikorpの志願兵としてナポレオンとのいわゆる「解放戦争」に参加し、Gadebuschの近くで瀕死の重傷を負ったため、ここに埋葬された。早くも 1814年には、Wöbbelinの埋葬地に、彼のための記念碑が建てられている。記念碑や記念サイトは、歴史的な文脈の中でケルナーの人生を思い起こさせ、後続の世代が彼の人生を政治的・思想的に利用していることを示している。

第二次世界大戦中、ルートヴィヒスルストへの道中にあるヴェッベリンの近くには強制収容所が存在した。ノイエンガンメ強制収容所の最後のサブキャンプは、1945年 2月 12日から 5月 2日までのわずか 10週間しか存在しなかった。その短い期間に、ヴェッベリン収容所は、ヒトラー政権の犠牲者 5,000人以上のためのステーションとなった。囚人の国籍は 25カ国以上に及び、1000人以上の囚人が過酷な監獄環境の中で病気や飢え、疲労で亡くなった。最後の犠牲者は、収容所解放後、米軍当局の命令により、詩人テオドール・ケルナーが眠る同じ木立(Hain)をはじめとする各地に埋葬された。」(註:Wikipediaでは「ナチスはヴェッベリンの近くにテオドール・ケルナーのために「英雄の木立(Heldenhain)」を建て、その敷地内に米軍は 1945年 5月 8日に犠牲者の一部を埋葬した。」とあります)

★★★ルードヴィッヒスルスト Ludwigslust -7- に続きます

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