ドイツ:領土の変遷「ドイツっていったいどこのこと?」

四方を海に囲まれた日本の領土は、周辺の島の領有権を別とすれば、概ね明確ですが、隣国と陸続きであるドイツの領土はかなり複雑な経緯で今日があります。ドイツって、いったいどこを指すんでしょう?

そもそも「ドイツ:Deutsch(ドイチュ)」という言葉が国名に使われるようになったのは、たかだかここ150年くらいのこと。1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となって「ドイツ帝国 Deutsches Reich」を成立させて以来のことで、それまでは国家の名前として使われたことは無かったのです。

今回、長くなりそうな気はしますが、そこを(多少の不正確さは承知で)分かりやすく書いてみたいと思います。Centenniaという歴史地図を使い時代を遡っていきます。

今日の「ドイツ連邦共和国:Bundesrepublik Deutschland ブンデスレプブリーク・ドイチュラント」はこういう感じですね。もう三十年経ってしまいましたが、東西に分割されていたドイツが統一されて今日の形になりました。それ以前、1989年10月2日までは右のように「二つのドイツ国家」が有ったのです。

第二大戦後1949年10月7日にドイツ民主共和国 Deutsche Demokratische Republik (通称東ドイツ)が成立し、1990年10月3日に東西ドイツが統合されるまでは、こんな感じでした。現在の国名は西ドイツと呼ばれた部分の国名をそのまま引き継いでいます

東西ドイツへの分断は第二次世界大戦の結果ですが、大戦前で、かつヒトラーが政権を取る1933年1月31年以前のドイツ帝国はこんな形でした。東の方に飛び地があります。これは東プロイセン Ostpreussen と呼ばれた歴史的な地域、また西の方には Occupied Rheinland というのが見えます。第一次世界の戦後処理の結果です。ヒトラーはこの占領されたラインラントに兵を送って取り戻し、ポーランド回廊も取り戻し、飛び地の東プロイセンを再び繋ぎ失地を回復して行きます。

1914年7月28日から1918年11月11日にかけて戦われた第一次世界大戦が勃発する前年、1913年のドイツ帝国はこんな感じ。ラインラントも占領されておらず、アルザス・ロレーヌはドイツ領で、また東プロイセンは飛び地になっていません。この形が、ビスマルクの働きで、ウイルヘルム1世を皇帝として成ったドイツ帝国 Duetches Reich の概ねの形です。
よく見ると隣国ポーランドは地図の上に存在しておらず、同じくチェコスロバキア(現在はチェコとスロバキアに分離)も成立していません。

1871年1月にドイツ帝国が成立する少し前の1868年、日本では明治維新が起こった、今から150年前はこんな感じです。ドイツという言葉は国名としては使われておらず、その後のドイツの主要なポジションを張る紫色の部分はプロイセン王国、次に大きいのはバイエルン王国、その他に幾つかの公国・侯国が存在しています。右斜め下の薄茶色の部分は所謂ハプスブルグ帝国、この時点ではオーストリア=ハンガリー帝国もしくは二重帝国(Doppelreich ドッペルライヒ)と呼ばれていました。

ドイツの位置
By User:52 Pickup – Based on map data of the IEG-Maps project (Andreas Kunz, B. Johnen and Joachim Robert Moeschl: University of Mainz) – http://www.ieg-maps.uni-mainz.de, CC 表示-継承 2.5, Link

上の二つの地図はWikipediaからの引用ですが、左の地図の赤い部分は1867年4月27日に成立した「北ドイツ同盟 Norddeutcher Bund」で22の領邦から構成されており、黄色の部分はそれに参加しなかった領邦です。北ドイツ同盟は強大なプロイセンが盟主となっており、それは数年後に成立するドイツ帝国の母体となります。参加しなかった南部の領邦国家の主たるものはバイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国など南部ドイツの諸国です。

右の地図はその前段階、フランス革命を経てナポレオンが欧州を席巻して衰退した後、ナポレオン後の体制を決めたのが「会議は踊る」で有名なウィーン会議ですが、そのウィーン議定書に基づいて「旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市との連合体」で、オーストリア帝国を盟主として発足した「ドイツ同盟 Deutscher Bund」です。(神聖ローマ帝国の版図は赤い線で示されていますが、ハプスブルグ帝国やプロイセン王国が獲得した領土も含むので、赤線からは少しはみ出しています)

多少の誤解を承知でザックリいえば、ナポレオンに引っ掻き回された後、「ドイツ語を喋る地域は纏まっていかんと、ああいう中央集権国家には太刀打ちできんかな」という機運があって、1806年にナポレオンに皇帝の座を明け渡したオーストリアが盟主となって「ドイツ同盟」を纏めてみたものの、新興で力をつけてきたプロイセンとオーストリアは所詮はウマが合わず、1866年には普墺戦争(プロイセンとオーストリア)なんて喧嘩までやっちゃう。で、それが治まったところで「ウチに付くものは来いや」とプロイセンが盟主となって立ち上げたのが「北ドイツ同盟」、その後、同盟国のヨイショもあってドイツ帝国となっていく…ということですね。

余談ですが・・・東西ドイツが、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊から紆余曲折あって、でも翌年1990年10月3には統一・合体した時に、「社会主義だった東独と資本主義だった西独は合体するのに、同じ資本主義で同じ(ような)ドイツ語を喋る西独とオーストリアは何故その前に統合するって機運にならないんだろう?」と不思議に思ってました。余程ハードル低いじゃん?まあ、今にして思えば、歴史的な経緯ってこういうもんなんですね。

更に余談ですが・・・南北に別れた朝鮮半島の二か国は、東西ドイツのように統合・合体するのが必然なのでしょうか?それともドイツ・オーストリアのように「同じ言語を喋り、同じ資本主義でもありながら別に存在する」スタイルが必然なのでしょうか?あるいは北は、その背後にある大国の「自治領」・「省」のような在り方で、南とは厳然と違った形で存継続するんでしょうか?非核化とか拉致問題とか、解決すべき重要な問題はありますが、その前に、現在分断されている二つの国家の関係が「その後」にどうなっているのか?(当事者二か国は)どうなっていたいのか?(周辺諸国としては)どうなっていて欲しいのか?・・・そこの議論が足りていないように思えます。

おっと脱線(笑) では、ナポレオンに席巻・蹂躙され、それを撃破し、落ち着いたところで「ドイツ同盟」に纏まった「35の領邦と4つの帝国自由都市」って、どんな形をしていたんでしょうか?それが下にある1816年初頭の地図です。

プロイセン・バイエルン・ハノーバーなどの存在感が大きいので数えづらいですが、35の「領邦国家」と4つの帝国自由都市があります。帝国自由都市とは「国家と同じ待遇の自治権を与えられていた都市」ということで、ここではハンブルグ・ブレーメン・リューベック・フランクフルトです。

1815年のウィーン会議から1871年の(プロイセンを盟主とした)ドイツ帝国の成立まで端折って書きましたが、実はその真ん中の1848年というのは欧州各地に於いて「革命の年」として大変重要な年です。ドイツでは「3月革命 Märzrevolution」であり、その前の期間を「3月革命前夜 Vormärz」と呼んだりします。永年の封建制度・絶対王政体制の崩壊が起こりつつあり、かつそれが地域ごとに跛行的に起こり、さらに産業革命から労働者という階層が生じて新たなパワーとなってきた重要な時代です。カールマルクスの生きた時代が1818年から1883年、1848年といえば彼が30歳の時で、既に時代に影響力を持ち始めていたわけです。共産党宣言が1848年に書かれたと言えばお分かりかと思います。

1848年の状況はこちら
カールマルクスについてはこちら

段々佳境に入ってきますが(笑)、ではナポレオンが登場する前、フランス革命が起こる直前の地図はどうだったのでしょうか?

これを見てどう思われるでしょうか?最初に思ったのは「どんな複雑な地図でも四色あれば塗分けられる」という「四色問題」を提起したヤツは天才だなあということ(笑)あ、厳密には、領土の飛び地がある実際の地図ではそうはならないんですけどね(笑) そして、周辺のフランスやイングランド、ポーランド、地図には無いけれどその背後のロシア、そしてハプスブルグ帝国などは広大な版図が一色で塗られる、所謂「中央集権国家」なのに、その真ん中の「ドイツ」となんとなく括ってしまえる地域には、なんでまたこんなにモザイクのようにチマチマとした「国」(領邦国家 Territorialstaat)が割拠することになったのか?何故ここだけこんな形が可能だったのか?そもそも、これって「国」と扱って別の色で塗りわけていいものなのか?

ここまで定義無しに「領邦国家」という言葉を使ってきましたが、それって何?ブリタニカ国際大百科によれば:

ドイツ統一 (1871) 以前にドイツに存在した諸独立国の呼称。その出発点となったのは 12世紀末の授封強制 (相続人が欠けた場合,または没収などにより最高封主の手中に帰した領土も,必ずだれかに再授しなければならないという中世ドイツの原則) で,さらに背景としては 11世紀後半から 12世紀初期の叙任権論争の時期に団体的治安維持の観念が芽生え,旧来の人的・封建的支配に代って裁判権保有者たる君主による領域支配が確立したことがあげられる。 1220年と 31年の(神聖ローマ帝国の)皇帝フリードリヒ2世による特権状で,領邦君主たる帝国諸侯の独立性は一層強化され,1365年の金印勅書はこの領邦国家の主権性を明確に承認したものである。 15世紀末から 16世紀初期には領邦分立を克服するため,数々の改革が試みられたが失敗し,宗教改革の動乱を通じて領邦主権は確固たるものとなり,1648年のウェストファリアの講和で最終的に確認された。この間領邦君主は領内貴族の勢力を押え,財政を安定させて官僚陣と常備軍を養成した。こうして近代以降西ヨーロッパ諸国が中央集権的絶対王政を確立したのに反し,ドイツでは地方分権的な領邦国家体制が形成され,国民主義的統一が遅れることになった。」

とあります。Wikiによる解説はこちら

どうやら「神聖ローマ帝国」というのが、こういう状況を創り出した要因のようですが、それについてはもう少し後で触れるして、上の解説にある1648年の「ウエストファリアの講和」あたりの事情に触れておきます。1618年から1648年にかけて、ヨーロッパを混乱に陥れた「三十年戦争 Dreissigjaeriger Krieg」ですが、そもそもは腐敗していたカトリックとその体制に対してプロテスタント(ドイツ語ではエヴァンゲリッシュ Evangelisch)を信仰する勢力が対抗したという宗教戦争として始まりました。

カトリックという宗教で、ローマ教皇は宗教面・精神世界の代表者であるのに対して、神聖ローマ「皇帝」は政治面・統治面・世俗世界の代表者と役割を分担していました。本来は「選帝侯」と呼ばれる有力な諸侯が選挙で皇帝を選ぶというシステムでしたが、この当時は実質的にハプスブルグ家の世襲となっていました。従って、戦争は神聖ローマ皇帝・ハプスブルグ陣営と、プロテスタント諸侯の宗教(諸侯が自分の領地の宗教は自分が決めるという権利)を巡る争いとして始まりましたが、次第にデンマークやスエーデンなどの周辺諸国が加わり、更には本来カトリックのはずのフランスがプロテスタントを支援する形で参戦するなど、訳の分からない戦争に発展し、それが30年も続いて、皆疲弊して、そろそろ手打ち・・・というのが1648年の「ウエストファリアの講和」ということになります。

三十年戦争についての大変分かりやすい解説はこちら

1680年の様相。1648年のウエストファリアの講和からしばらくたって状況が落ち着いた時点の地図

下の地図(1618年初頭、三十年戦争勃発前)とあまり変わりは無いように見えますが、ブレーメンとポメラニアあたりがスエーデンと同じ色に塗られているのは、グスタフ・アドルフに攻め込まれ戦後もスエーデン領として残ったことを示しています。またアルザスやロレーヌ地方がフランスと同じ色となりフランスに奪われたことを示しています。また太線は神聖ローマ帝国の版図を示していますが、スイスが太線の外になっており、独立を認められたことを示しています。

戦前・戦後もモザイク状態はあまり変わっていませんが、戦後は皇帝の統率権が弱まったのと裏腹に、個々のモザイクの諸侯の自治権が大幅に拡大し、ミニ主権国家群(領邦国家)となったイメージです。かなり無理をして例えれば、三十年戦争前は各州にある程度の自治権はありながら全体の統率権は大統領が有しているアメリカ合衆国状態だったのが、戦後はカバー組織としては存在はしているけれど個々の国家の主権がしっかり独立している国際連合状態・・・皇帝は国連事務総長?(笑)

三十年戦争が始まる直前、1618年初頭の様相

なお、細かい諸侯領が同じ薄茶色で塗られているのは、それこそ四色問題ではないですが、あまり色を使い過ぎると煩雑になり過ぎるという、地図塗分けの都合からで、少なくとも三十年戦争後の地図からは別の色で塗り分けるのが本来かと思います。

この項、まだ続きますが、長くなったので取り敢えずこのあたりで一度区切ります。

本題であった「ドイツって、そもそもどこを指すの?」ですが・・・1871年のドイツ帝国の成立までは国家の名前ではなかったのですが、その前段階に「ドイツ同盟」や「北ドイツ同盟」と名付けられた同盟があったということは、まあ「大体、ドイツ語を喋るあのあたり」を指すという共通認識はあったわけですね。ただ、個々人が所属しているのはザクセンや、バイエルンや、ハノーファーなどだったわけで、今日のような感覚での「自分はドイツ人だ」という意識はまだ無かったものと想像されます。

ドイツというかドイチュ deutsch とは本来「民衆(の)」という意味だそうで、教会上層部が公用語として用いていたラテン語に対して、一般大衆が「あのあたり」で使っていた言葉・・・民衆語を喋る連中というような意味だったようです。フランス・スペイン・イタリアといったロマンス語諸国でも、教会上層部が使う「高尚な書き言葉としての古典ラテン語」に対して一般庶民は「話し言葉としてのラテン語」が使われ、それが今日のフランス語・スペイン語・イタリア語などに発展していった経緯があります。

ゲルマン諸民族が住んでいた「あのあたり」では、それとは素性の異なる言語=民衆の言葉が離されており、そういう言葉を喋る連中(が住む地域)として、ざっくりドイツ語圏を指すようになっていったということでしょう。日本にように海という天然の境界線が無いヨーロッパでは、その地域というのはかなりユルイ境界線しか持ち得なかったのでしょうね。ということで、「ドイツって、そもそもどこを指すの?」に対しては「ユルく括ったドイツ語圏」みたいな答えが妥当なところかなと思います。そういう意味では、ドイツ語を喋るオーストリアを含める考え方も、含めない考え方も存在しているようです。そのあたりが既にユルい(笑)

また、気が向いたら、この前段である「神聖ローマ帝国」についても書いてみたいと思います。

以上

なお、この記事をここまでお読みいただいた方は、かなりドイツに深い関心をお持ちと想像いたします。こちらにドイツに関するかなりディープなブログの記事一覧がありますので、是非ご訪問ください。

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