- 2020-4-30
- ブログ
昨年はベルリンの壁崩壊から三十周年だったこともあり、その年(1989年)のドイツのニュース動画を中心に、東西ドイツの国境の様子や東独の状況を報告する連載を書きました。初回はこちら、ベルリンではなく近所の東西ドイツの壁が開いた時の様子はこちらです。
さて翌年、1990年 4月になって、初めて私のような非 EU圏(当時は EC)の外国人に「国境でビザが発給される」という噂が流れ、それではっ!と車で出かけてみました。その時のメモが残っていました。駄文ですが、その時の興奮が伝わってきます。
89年11月に国境が開き、さしあたり自由になったのは「東独市民の西独への出国」であり、西側からの入国はまだ複雑な手続きが必要だった。当然のことながら、西独市民には比較的早くビザが撤廃される。正確な日付は覚えていないが、あの有名な大晦日のブランデンブルグ門のお祭り騒ぎの時にはもう廃止されていたのではなかったか...。またECやアメリカ人に対しても同時あるいは似たようなタイミングでビザが撤廃になった。我々のような非ECの外国人に対してはなんの音沙汰も無かった。
国境の検問所でビザを発給するらしい...という噂を聞いたのは90年の4月も終わりの頃だった。それまでは旅行社にパスポートを預けて、大使館だか代表部だかに申請して、ビザ取得までに4週間もかかるというような状態だった。出張の多い駐在員が1ヶ月もパスポートを預けてしまうというのはかなり難しいものがあり、実質は無理だった。
噂を確かめに出かけたのが4月30日である。ラウエンブルグの西側検問所をなんなく通過すると、そこはかつての無人地帯の中に引かれた真っ直ぐな一本道である。やがて大仰な東側検問所が見えてくる。白い二本の柱の間に東独のエンブレムが見える。同じエンブレムのついた国旗が翻っている。条件反射でドキドキする。
車の中で、一人ではしゃいでいた。窓を開けていたら発狂してるんじゃないかと思われたかも知れない(笑)
監視塔のすぐ下の駐車場に車を停めて、ビザの窓口らしい所に行く。Intershopという外貨ショップも同じ建物にある。薄暗いホールには色褪せた観光ポスターやライプツィッヒメッセの案内などが掲示されている。西側の役所の窓口と違って妙に「田舎っぽい」。窓口の窓枠もペンキの塗られた木製だし、しまっている窓口のレースのカーテンも粗末なものである。売店のおばさん以外にはホールには人は居ない。そりゃそうか、ビザを取ってまでこの辺をうろうろしてみようなどという物好きはあまりいないんだろうな。
ビザ料金はM15.-となっている。もちろん公式レートで西独とは1対1である。
もうひとつ、強制両替がある。28ドイチュマルクを払って東独の25マルクを受け取る。旧式のタイプライターでカーボン紙を挟んで打たれたヴァウチャーを見ると、レットゲンドルフというところでのキャンプ場を手配したことになっている。そうか、ビザは2日有効で、事前に宿泊場所を予約しないといけない...という規則になっているからキャンプ場を予約したことにするわけか。よく見るとライゼビューローもVEB(国営企業:人民所有企業)だ。
とにもかくにも、手続きは終わった。東独に入れるのだ!
ゲートを通って最初の町ボイツェンブルクに向かう。対向車線は西に向かう車で大渋滞している。トラバントの混合ガソリンの排気ガスで凄いニオイだ。しばらく走ると、ソ連製ラダのパトカーが停まっており、「人民警察」の警官にパスポートとビザの提示を求められた。いきなりこういう事態になったものだから、彼らもヒマを持て余しているに違いなかった。西ドイツ人はビザ不要なので、チェックしなければならない対象者は極端に少ないのだから...。ヒマなうちはまだ良かったのだろうが、やがて失業が待っているはずであった。
三十年前のドイツ(41):Erste Einreise in die DDR 初めての東独への入国 ー2-に続きます。