三十年前のドイツ(37):1989年11月10日金曜日・12日日曜日 東西ドイツ国境

三十年前のドイツ(36):1989年11月10日金曜日・11日土曜日からの続きです。

旧西独のリューネブルクという、東独との国境から20kmほどしか離れていない小さな町に住んでいた私は、ここ何週間は会社から帰るとテレビに釘付けになって、チャンネルをハシゴしながらニュースやニュース解説を食い入るように観ていました。そして、ベルリンの壁が崩壊するところをテレビ目撃したのです。まさに「テレビの前で起こった革命」というさまでした。

しかし・・・ベルリンの壁と、東西ドイツの壁では少々事情が異なったようです

当時ドイツのテレビには「文字放送(Text Sendung)」というのがありまして(今もあるのかな?)、文字情報による様々なジャンルのニュースを流していました。画面は上のようなイメージです。定時のニュースの間にはこれを見て、随時最新の状況を確認していました。

昨夜(9日木曜日)遅くのニュースでベルリンの壁に東独市民が殺到しなし崩し的に壁が開いたことや、今日(10日金曜日)の朝一のニュースでそれが詳しく報道されているのは知っていました。でもそれはベルリンという、私の住んでいた場所から250kmもの距離がある特殊な「陸の孤島」で起こったことでした。東西ドイツ国境は暫くは関係ないだろうと思って、車で5分くらいのところにあった会社に出勤たのです。

で、昼飯を食べるために自宅に戻り、いつものようにテレビの文字放送をつけるとこんな大きな文字が点滅していたのです!

下記は当時のメモから:
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1989年11月10日金曜日

11月10日金曜日、会社から5分ほどの所にある自宅に昼飯を食べに帰った小生は、いつものように真っ先にテレビのスイッチを入れ、ニュースをやっていないとみるや、文字放送に切り替えた。するといつもは細かい字が並んでいるニュース画面のトップに、文字放送独特のフォントの大きな文字で ”Grenze geöffnet !” と書いてあり、おまけにそれが点滅している。そうか、ベルリンだけの話じゃないんだ!

昼飯を早々に切り上げて会社に戻り、上司にこれを話す。ソ連に駐在経験があり、今回の成り行きを非常に興味を持って見ていた上司も気もそぞろで、金曜の定時である午後3時になるのも待ち遠しく、二人で車で15分ほどのラウエンブルグの検問所に行ってみた。11月らしい暗い雨空で、ぽつぽつと小雨が降っていた。テレビを見たのはまだ余り多くないのかも知れない。見物人はまばらだった。しかし国境線ギリギリのラインには何人かが並び、警官も混じって皆で東の方を見ていた。

遠い東の方から、トラバントの2サイクルエンジン独特のパタパタパタという音が響いてくる。やがてそれが国境に到達すると、どっと拍手が起こる。警官にパスポート見せて握手をしている。中には詰め込めるだけの家族、一族を乗せている。これがあこがれ続けてきた西ドイツなのかと、目に映るモノ全てを見逃すまいとでもいうように、ハンドルにしがみついたお父さんは、目を剥いて運転している。やがて Begrüßungsgeld という西独政府から支給されるお金をもらう手続きをしたりして、トラバントはラウエンブルグの町の方に走り去り、静かになる。次の車が出てくるのはそれからまたしばらくしてからだ。

初日の10日はこんな風にポツリポツリという感じだった。
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後で聞いた話によると、東西ドイツ国境の東側検問所も混乱していたようで、東ベルリンの当局に問い合わせても明確な答えは無く、一方でシャボウスキーが一日早く間違って読み上げた新旅行法草案は「10日から直ちに」発効すると書いてあり、また出国は申請すれば遅滞なく許可されるとも書いてあり、どの国境検問所を通ってもいいと書いてあり・・・それを文字通り解釈すれば、この国境からも今日10日からは西側への旅行出国が可能なはず・・・

でも、それは草案の段階で、まだ議決されたわけでもなく、そもそも国境検問所の担当官にはそんな情報は共有されておらず、とはいえ昨夜の東独国営放送でも「国境が開いた」という報道があった・・・どうすりゃいんだい、いったい?というのが東独サイドの国境検問所担当官の本音だったようです。

それでも、ちゃんとネゴができた数少ない人たちはこちら側に出てこれたという感じでしょう。ただ、だんだん暗くなる、霧雨の午後、一時間に一台くらいのトラバントを待つというのもシンドイもので「帰りますか?風邪ひきますよ」と、その日は2、3台のトラバントが出てくるのを目撃して引き上げたのでした。

翌日11日の土曜日は、週に一度のハンブルク日本人補習校に子供を連れて行き、和食用食材などを買い出しに行く日なので国境訪問はスキップ。

その翌日12日の日曜日に、カミさんと再び Lauenburgを訪れた時には状況は一変していたのです!

下記は当時のメモから・・・
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1989年11月12日日曜日

11月12日の快晴の日曜日、家族をつれて同じ所に見に行ってみた。もう報道は完全に行き渡っていた。ラウエンブルグに向かう途上でトラバントとすれ違う。みんなクラクションを鳴らし、ライトを点滅させて喜んで走っている。こちらも負けずにクラクションで応え、パッシングライトで祝福する。おお、すごい、すっごい!!トラバントの群がお祭り騒ぎでリューネブルグの方に向かっている。

検問所のはるか手前で渋滞となり、しかたなく路上駐車をして歩いて検問所の方にいく。ハンブルグに住んでいる日本人やドイツ人の同僚達にも出会う。みんな来ているんだ。おとといとは大違いで山のような見物人が集まっている。駐車場にはトラバントやヴァルトブルグもかなりの数が駐車している。検問所の向こうには大渋滞が起こっているようだった。

パスポート手続きを済ませた車が出てくる度に大きな歓声が上がる。東の若者だろうか、既にかなり酔っている様子で、なおビール瓶を持ってラッパ飲みし、あらん限りの声で「ドイチュラアアアアントッ」と叫び、文字通り感動に酔いしれている。近所のスーパーマーケットの袋にいっぱいのバナナを詰めて、トラバントが出てくる度に差し入れしている者がいる。東は外貨が乏しいのでバナナやオレンジなどの海外の果物がほとんど手に入らないらしい。商魂たくましいタバコ会社はキャンペーンガールを動員してタバコのサンプルを配っている。West というブランドがやったら受けるだろうななどと冗談を言っていたが別のブランドだった。

リューネブルグの町に帰ると、トラバントがそこら中に駐車していた。町中にあの混合ガソリンの排気ガスの独特のニオイが充満していた。東の人は一目で分かった。概ね家族で歩いており、ショーウィンドウに釘付けになっていた。しばらくして町のスーパーなどは日曜も営業をするようになる。ドイツの小売店は有名な Ladenschlussgesetz(閉店法)によって営業時間が規制され、日曜日は閉店することが義務付けれれていたが、この時ばかりは超法規だったのだろうか?そういえば駐車違反も東のナンバーは大目に見ていたようだ。

オイフォリーという単語を目にした。「陶酔」というらしい。まさしく、みんなが感動に酔っていた。
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今だに30年前のこの日のことは、昨日のように思い出します。

(この項、後日補足・加筆予定です)

三十年前のドイツ(38):1989年11月23日木曜日 東西ドイツ国境に続きます。

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