誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(47):★★★ゾンダースハウゼン Sondrshausen -8-

★★★ゾンダースハウゼン Sondrshausen -7- からの続きです

駅に向かって歩きます。帰りは東西に延びる3本のメイン通りのうち、一番南側の Güntherstraßeを通ることにします。

立派な建物が見えますが、これは「Geschwister-Scholl-Gymnasium Sondershausen」というギムナジウムで、名前はナチス時代に抵抗運動を行ったミュンヘン大学の学生組織「白バラ」に属し、若くして処刑されたショル兄妹にちなんでいます。

独語 Wikipediaには「ショル兄弟は、通常、ハンス・ショル、ソフィー・ショルと呼ばれる。両者は、第二次世界大戦中、国家社会主義に対する抵抗運動、特に戦争とアドルフ・ヒトラーのもとでのファシスト独裁に反対するビラの配布で活躍したミュンヘンの学生グループ「白バラ」のメンバーとして知られるようになる。戦後から今日に至るまで、ハンスとゾフィーは、全体主義的なナチス政権に対するドイツ国内の抵抗勢力として、人間的な価値を志向する重要なシンボル的存在とみなされている。」とあります。↓↓画像はクリックするとスライドショーになります。

✙✙ この学校に関してはこちらをクリックください

沿革:Geschwister-Scholl-Gymnasium Sondershausen

ゾンダースハウゼンの学校の歴史はかなり早く、16世紀にはすでに伯爵の支援を受けた教育機関があった。1829年5月4日、地元のグラマースクールが初めて開校した。当時はまだPfarrstraßeにあった。しかし、19世紀半ばにはすでに、増え続ける生徒のためにスペースが非常に不足し、集会場がないことも嘆かれていた。

1874年、この文脈で初めて、新しい建物とその準備について言及された。1875年、政府は州議会に新しい校舎に関する覚書を書き、実際に必要な資金が承認された。これは、普仏戦争に勝利したフランスが支払った賠償金のうち、シュヴァルツブルグが負担したものである。

1876年、国が建物の敷地を買い取った。設計はヴェルニゲローデの名工カール・フリューリングが担当した。建設は、ブライヒロッド、棟梁のウンベハウン、監督者のケストが監修した。その費用は36万ゴールドマルクにのぼった。

1881年10月17日、ギムナジウムとレアルシューレが引き渡された。1888年11月25日、校舎の裏に建てられた木造の体育館が落成し、館長の挨拶が行われた。53年間務めた館長ヴィルヘルム・キーサー教授は、1889年に大学を退職した。枢機卿学校評議員、シュヴァルツブルク・ゾンダースハウゼン公国の国会議員、シュヴァルツブルク名誉十字章I.級保持者であった。

当初、ギムナジウムとレアルシューレは1つの建物に入っていた。1911年、初めて女子が上流階級に入ることができた。

1910年、ポッセンで初めて「セダンの日」が厳粛に祝われ、その後「ポッセンフェスト」の伝統が生まれました。

第三帝国時代には、民族主義や国家社会主義の思想の普及が奨励された。多くの教師がNSDAPのメンバー、シンパ、あるいは体制側の仲間になった。しかし、中には、ただ単に「足並みを揃える」ことを許さない人たちもいた。その結果、報復措置がとられ、教育禁止や投獄などの処分を受けることになった。

終戦後、政治的に右翼的な教師はすべて、極めて一貫して教職から解任された。ゾンダースハウゼンでは、中等学校の教師の50%以上がそうでした。その穴を埋めるために、いわゆる新任の先生やスクールアシスタントを採用した。前者は、異業種の人たちが急遽「再教育」されたものである。後者は、高校を卒業した人が短期間の講習を受けた後、仮採用され、通信教育で適切な資格に追いつくことになっているものである。

1955/56年にドイツ民主共和国で行われた学校改革の中で、いわゆるPOSやEOSが作られ、1962年にゾンダースハウゼンでも実施された。

1993年から1998年にかけて、59社が参加して計画から完成まで行われた総合的な改修・修復工事。30の新しい教室、準備室のある専門キャビネット、衛生設備が建設されました。この歴史的建造物を元の姿に戻すために、80種類以上の色彩や色調が使用されました。その費用は約1,400万マルクに上った。

↓↓約1分程の学校紹介です


Ferdinand Menge, * 1876年10月29日 in Freienbessingen, † 1962年7月28日 in Sondershausen)は、ドイツの画家、グラフィックアーティストが 1910年~1945年までここに住んでいた・・・とのことですが、流石に知らんな~(笑)

1904年にようやくゾンダースハウゼンに戻り、ここでフリーの画家として活動することになった。そのため、彼は大きな成功を収め、尊敬を集めるようになった。彼の主な収入源は、ゾンダースハウゼンやその周辺の高位な人物からの肖像画の依頼であった。また、ポスターやグリーティングカード、カレンダーや年鑑のデザイン、写真のオーバーペイントやカラーリングなども手がけました。第一次世界大戦では、40歳近くで兵士として徴兵され、東部戦線に従軍した。

戦後は、1921年に登場したソンダースハウゼンの非常用貨幣のデザインを手がけるなど、多くの依頼を受けるようになった。

いかにも旧東独に在りがちな建物とその様相ですが「Ferienwohnung(滞在型民泊)」の看板があります。観光地などにはよくありますが、こういう鄙びた町で・・・?まあ、確かにホテルは殆ど無い一方で、この町は「Musik- und Bergstadt」として売り出しており、音楽イベントも開催されるようなので、その時に一時的に数が膨らむ来訪者を吸収する需要はあるのかもしれませんね。Booking.comで検索すると 10件ほどヒットします。お試しください。

しかし・・・この町って、いやこの町に限らず旧東独のこういう規模の町って、飲食店や居酒屋が極端に少ないんです。イベントを催して人を惹き付けても、それをもてなすインフラがもう少し充実するといいのに・・・という気がします。

★★★ゾンダースハウゼン Sondrshausen -8- に続きます

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