- 2019-8-8
- ブログ
私が初めてドイツのハンブルグに赴任した1981年、ドイツの公共放送 ARD(Allgemeine Deutsche Fernsehen:ドイツの NHKのようなもの)で「Vor vierzig Jahren 四十年前」というモノクロの番組がありました。その時点での四十年前といえば1941年になりますが、当時の大本営発表的なニュース番組 “Die Deutsche Wochenshau” をそのまま加工せず放送していたのです。
勇ましいトランペットのファンファーレと、ナチスのシンボルの鷲の映像に続いて、ドイツ軍の前線での戦闘の状況や、銃後の守りの様子を伝える四十年前のニュース映画・・・それを見て、当時のドイツ人は、いろいろな立場から様々な感慨に耽っていたようです。
さて、四十年前ではありませんが、今年2019年はベルリンの壁が崩壊した1989年から三十年になります。1989年と言えば、一月には昭和天皇が崩御され、年号が平成に代わり、ポーランドの民主化運動で「連帯」が合法化され、六月には天安門事件が起こり、十一月には鄧小平が辞任し江沢民がその後を継ぐ・・・など、結構ドラマチックなことが起こった年でした。
しかし、その中でも自分的には、駐在していたドイツで、しかも自分の目の前で起こった東西ドイツの壁の崩壊が今も最も印象に残っている出来事です。当時私は、西ドイツの東の端、東独への国境まで約20kmのところに立地した工場のオペレーションを担当していました。自分てしては200km以上離れたベルリンの壁よりも、目の前にある東西ドイツの壁の方が身近な関心事でした。その東西ドイツの壁、鉄のカーテンが崩壊するなんて、誰も考えてもいなかったのですが・・・思い起こすと、あの夏はなにかが変でした。
という訳で、あの出来事から三十年目という節目の今年、”Vor dreißig Jahren”「三十年前」ということで、シリーズで当時を振り返っていきたいと思います。旧ドイツ帝国の首都で、分断されたドイツの象徴的な存在の「ベルリンの壁」とその崩壊はあまりにも有名ですが、その陰であまり取り上げられることのない「東西ドイツの壁とその崩壊」を中心にご紹介します。お付き合いください。
三十年前のドイツ(2):そもそも東西ドイツ国境とは?に続きます。