三十年前のドイツ(58):Die Zeit das Ostdeutschland noch die DDR war 東独がまだ「DDR」だった頃

ご存知のように、東西に分かれて存在していたドイツは 1989年 11月 9日にベルリンの壁が崩壊し、翌年 1990年 10月 3日に西独が東独を吸収合併するような形で統一されることになるわけですが、この 11ヶ月は東独政府自体は存在していた訳で、その東独政府も、それに「Nein」を突き付けた市民も、東独にとってこれからどういう選択肢があるのかを真剣に模索していた時期でもありました。この頃に自分なりに状況をメモしたものが残っていました。下記に引用しておきます。

 

東独がまだDDRだった頃

 DDRという字面、あるいは「デーデーエァ」というその響きは私に一種独特の感慨を惹き起こす。それは「東独」でもなく「ドイツ民主共和国」でもなく、正式国名の Deutsche Demokratische Republik でもない。DDRでなくてはいけないのである。

 あの異様なまでに厳しい国境検問、アウトバーン24号を人民警察のパトカーに捕まらないように100キロぴったりで走った時の緊張感の記憶、爆撃された都市に新たに建った高層アパートの近代的を誇りながらも妙に漂う安っぽさ、農民と労働者の理想の国家を標榜しながら壁を造って国民を逃がさないようにしている矛盾、シュタージの不気味なネットワーク...そんな、西独とはことごとく違った得体の知れない「不気味感」がこの”DDR”というアルファベットの三文字から漂ってくるように感じてしまうのは私だけであろうか?それはどこか「ソ連」という略称から惹起される不気味感に共通するように思えるのだが...

 ある時、ドイツ人の友人と出張した際に、その時車の中に流れていたラジオの放送の内容を尋ねたら、これはDDRの放送だと教えてくれたことがある。なんで分かるの?と聞いたら(・・・まあ、ドイツ人にドイツ語の放送を聞かせておいて、なんで分かるの..もないものだが・・・)「今、ベーエルデー(BRD)って言っただろ?西ドイツでは自分の国のことをBRDとは省略しないんだよ」と教えてくれた。

 そういえば...東独のことは東独でも西独でもDDRと呼んでいるのに、西独のことは西独では必ずブンデスレプブリーク Bundesrepublik  と長ったらしい呼び方をしていた。何故東独が西独をそうよぶようにBRD「ベーエルデー」と呼ばなかったのだろう...

西独に統合されていく過程で、東独になってから改名された通りの名前が元に戻される動きもあった

 東独がまだDDRであった頃、突然全てが自由になったものだから、西独への接近とそれに対する反発とを軸に、様々な価値観が右往左往しながら落ち着き場所を探しているようだった。テレビを見ているだけでもそれは明らかだった。西独に対して何らか対抗できるアイデンティティを探し出して東独は併存を試みようとしていた。「連邦国家か国家連合か?」みたいな...分割を経験しなかった日本人にはわかりにくい議論が繰り返されていた。

 ついこの前までは妙に堅苦しく味気のない番組ばかり(それが逆に西との対比で妙に面白かったのだが)流していたDDRのテレビが深夜にポルノ番組を流し始めた。どうなっちゃったのと思っていたら、やがて中止された。また、詳しい内容は忘れたが、日本のことを「世界の模範」みたいに持ち上げる論調のドキュメンタリーも放送された。西独のメディアの日本観は概ね「ちょっと変な国」というスタンスだったものだから、見ていてなんだかこそばゆかった。「新生東独は親日的で、西独とはちょっと違うスタンスですよ」..と違いを強調している様に(もう少し突っ込めば、「仲良くして頂戴、復興を援助して頂戴ね」というメッセージが込められている様に)感じたのは私の思い過ごしだったのだろうか?

 Demokratie Jetzt とか Demokratischer Aufbruch とか Neues Forum とか...いろいろな政党や団体が出来、議論し、そして消えていった。政治家も日替わりのように登場しては、シュタージの協力者だったという過去を暴かれて、あるいは捏造されていつの間にか消えていった。

 統一されてからは徐々にネオナチが台頭し、スキンヘッドが外国人を襲ったりし始めたのだが、東独がまだDDRとしてあったころは、そういう勢力もまだ芽を出す前だった。危ないから一人で東に行かない方がいいと言われ始めたのはもう少し後で、この頃は特に危険を感じることは無かった。

 壁が開いてから一年経たないうちに西側に吸収されたわけだから、それに向かっての大きな流れは既に出来ていて、抗いようもなかったに違いない。それは社会主義路線を放棄した東独が西独とは別のアイデンティティを確立できなかったからという必然の流れなのかも知れないし、再統一を果たした首相として後生に名を残したかったコール首相率いるCDUの札束攻勢によって作り出された半ば人為的な流れだったのかも知れない。

 しかし、この壁が崩壊した後、東独がまだDDRであった頃というのは、そういう流れへの反作用もあり、全く関係のない流れもあり...まさにパンドラの箱を開けてしまった混沌のような11ヶ月だった時期として想い出に残っている。

三十年前のドイツ(59):「まだ東独のあちらこちら」に続きます。

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