誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(29):★★ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -10-

ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -9- からの続きです

Domplatzの近くに「HÄNDEL-HAUS」「MUSIKMUSEUM」と書かれた建物があります。そう、あの「メサイア」、「水上の音楽」、「王宮の花火の音楽」などで知られる(・・・というか、私はそのくらいしか知らないのですが(笑))大作曲家のヘンデルはハレの出身で、この建物はヘンデルの生家なのです。奇しくもバッハと同じ 1685年生まれの同時代人ですが、知名度ではバッハの方が圧倒的に有名ではないでしょうか。それでも私にとっては、中学校の音楽のテストで「ヘンデル」と書いたつもりが、教師に「君のカタカナは『ヘソデル』に見える」と大笑いされて以来、忘れられない作曲家です・・・って、そこかい(笑)

おバカな書き出しで始めたついでに、もうひとつ「ツカミ」を(笑)ヘンデルの曲で有名なものに「メサイア」がありますが、約2時間半ある大作なので、全曲を通して聴く機会はなかなか無いかと思います。とはいえ、そのなかの「ハレルヤコーラス」は大方の皆さんが一度や二度は聴いたことがあって、耳に残っているのではないでしょうか?ここでサワリだけでも引用しようと YouTubeで検索して、傑作なのを見つけましたのでご紹介します。あ、英語だったんだ、あの歌詞!ということも気づきます。最初から笑えますし、段々手が込んできて、最後まで飽きさせません。必見です(笑)

Jörg M. Unger, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

Händel-Denkmal1.jpg
Von Dirk Nawrocki – selbst fotografiert und bearbeitet, Bild-frei, Link

マルクト広場にはヘンデルの像が立っています。ヘンデルに関する情報は Wikiedia(日本語独語)をご参照頂ければと思います。ここでは、本筋ではないのですが、私なりに気になっていること・気になっていたことを、いずれ自分で深掘りする為の備忘録を兼ねて書いておきます。ヘンデルの年代記を日本語 Wikipediaから拾ってみると・・・

ハレ・ハンブルク時代

1685年、現ザクセン=アンハルト州(当時はブランデンブルク=プロイセン領)のハレに生まれた。ハレはもとマクデブルク大司教領の中心都市で、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になった。

1702年にハレ大学に入学したが、同年ハレ大聖堂のオルガニストを1年間の契約でつとめる。この頃に始まったテレマンとの交友は終生続いた。

翌1703年、ヘンデルはハンブルクへ出た。当時のハンブルク・オペラの中心的な作曲家はラインハルト・カイザーであり、ヘンデルはその影響を受けた。1703年にヘンデルはマッテゾンとともにブクステフーデの後任オルガニストになるためにリューベックに旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。2年後にバッハも同じ経験をしている。

■ 註:ブクステフーデ Buxtehudeはハンブルクのエルベ川を挟んで対岸にある都市で、音楽家 ディートリヒ・ブクステフーデ Dietrich Buxtehudeもその地名に由来しているらしい・・・のですが、Buxtehudeの記事にはその記述はありません。

■ 註:Buxtehudeの就いていたリューベックの聖マリエン教会のオルガニストは北ドイツの音楽家にとって最も重要な地位の1つとされていたらしく、ヘンデルもバッハもブクステフーデの後任となることを考えたが、「彼の娘と結婚することが条件」とされ断念・・・詳細の記述は無いが、年齢が一回りほど年上だったらしい。ブクステフーデ自身は前任の Franz Tunderの娘と結婚しており、当時としては割と当たり前のことだったらしいです。

ライスハレCC 表示-継承 2.5, リンクによる
↑↑ Hamburgの旧 Musikhalleとその壁に埋め込まれたヘンデルの像 ↓↓

イタリア時代:1706年から1710年までイタリアの各地を巡った。

ロンドンへ
1710年、25歳のヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長となったが、ハノーファーには落ち着かず、ハレで年老いた母を訪れた後、デュッセルドルフに滞在し、その年の暮には初めてロンドンを訪れた。翌 1712年 11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのままイギリスに住み着いた。1714年のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ 1世として迎えられることになるが、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく、新国王とは良好な関係を保った。

■ 註:学校では「ヘンデルが英国に行ったきりご無沙汰で、不義理をしていたハノーファー選帝侯が、こともあろうに英国国王ジョージ 1世となった。ヤバいと思ったヘンデルは、『水上の音楽 Wassermusik』を作曲して、ジョージ 1世がテムズ川で舟遊びをする際に、ボートでこれを演奏してご機嫌を取った」・・・と習ったような記憶がありますが、それは俗説のようです。

■ 註:今の国家観では「ハノーファー選帝侯が英国国王(兼務かな)となる」・・・というのがどうにも理解しづらいですね。日本の皇室に男系が絶え、天皇をサウジ王家とか、英国王室から招聘する?少なくとも日本ではあり得ないですね。ハプスブルク家のマリー・アントワネットがブルボン家に嫁ぐ・・・ような政略結婚あたりまでならわからないことはないですが。こういう事例は欧州の歴史の中では頻繁にあった・・・というか、それがデファクトだったようです。

■ 註:1831年にベルギーがネーデルランド(オランダ)から独立した際に、王として迎えたのはザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルドだったというのもその一例です。現代の欧米企業では CEO(最高経営責任者)は社内の生え抜きに拘らず広く優秀な経営者人材を(業界外からも)スカウトしたりしますが、王を領土内からではなく、遠くの公爵家から招聘するっていうのは、それに似た感覚なんでしょうか?

1727年には正式にイギリスに帰化した。1741から翌年にかけてダブリンで慈善演奏会を開き、このときに『メサイア』を初演して好評を得た。1749年にはオーストリア継承戦争の終結を祝う祝典のために『王宮の花火の音楽』を作曲する。

■ 註:ここにも継承問題が顔を出します。英国のビクトリア女王やエリザベス1世(今の英国女王はエリザベス2世)の例があるので、欧州では古くから男女同権というか女史にも王位継承権があるように思いがちですが、それはむしろ例外で基本は男子相続、上述のベルギーにしても女子に王位継承権を認める憲法改正をしたのは 1991年だったりします(日本はどうするんですかねぇ(笑))。マリア・テレジアがハプスブルグ家の家督を相続するのにプロイセンが反対し、またハプスブルク家の弱体化を狙うフランスのブルボン王家も口を出し手を出し(笑)逆に英国はオーストリア支持・・・なんだかんだ有って、1748年にアーヘンの和約で一段落します。それを記念したのが「王宮の花火の音楽 Music for the Royal Fireworks:Feuerwerksmisuk)です。いかにも祝典という雰囲気の曲で、下の動画は YouTubeでは 300万回以上再生されています。

1751年に左眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明したため作曲活動はできなくなったが、その後も演奏活動だけは続けていた。1758年の夏、タンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けたが成功しなかった(ジョン・テイラーはバッハにも同様の手術を施して失敗している)。翌1759年、体調の悪化により死去。74歳であった。ウェストミンスター寺院に埋葬された。

■ 英国では大変リスペクトされている作曲家で「イギリスではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用される。たとえば1981年のチャールズ王子とダイアナ妃との結婚式では『サムソン』から「輝かしい天使よ」がキリ・テ・カナワによって歌われ、2018年のヘンリー王子とメーガン妃の結婚式では『アン女王の誕生日のための頌歌』の第1曲「神々しい光の永遠の源よ」がエリン・マナハン・トーマスによって歌われた。要人の葬式には『サウル』の葬送行進曲が演奏されることが多い。『ソロモン』の「シバの女王の到着」もよく使われる曲で、2012年ロンドンオリンピックの開会式でも使われた。『ジョージ2世の戴冠式アンセム』中の「司祭ザドク」は伝統的に戴冠式で使われる。サッカー・UEFAチャンピオンズリーグの入場曲「UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム」も「司祭ザドク」を原曲とする。」という解説が Wikipediaにあります。

「HÄNDEL-HAUS(ヘンデルの生家)」「MUSIKMUSEUM」


マルクト広場のヘンデル像の夜景

ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -11- に続きます

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