誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(90)★★★パーゼヴァルク Pasewalk -1-

メクレンブルク=フォアポメルン州のパーゼヴァルク Pasewalkをご紹介します。

場所はドイツの東北のはずれ、ポーランドとの国境まで約 20kmのところにあります。独語 Wikipediaによれば「パーゼヴァルク(Pasewalk [ˈpaːzəvalk])は、メクレンブルク=フォアポンメルン州のヴォルフスベルク郡にある町で、地区の地位を持つ。ウッカー=ランダウ・タール自治体の行政の中心であり、州内にある18の中規模の中心地のひとつである。この都市は、歴史的な第2軽騎兵連隊「ケーニギン」(ポメラニア)Kürassier-Regiments „Königin“ (Pommersches) Nr. 2)の存在から、「Kürassierstadtの騎兵都市」としても知られている」・・・とあります。後半は何を言ってるのかわかりませんが、あとでフォローしましょう。

非知名度は★★★でいいと思いますが、ヒトラーに詳しい方ならひょっとしてご存知かもしれません。第一次大戦中に負傷したヒトラーは、この町に有った陸軍病院で療養して終戦を迎えたのです。

独語 Wikipediaには「マスタードガスによる負傷で一時的に失明したドイツ帝国首相のアドルフ・ヒトラー(当時29歳の二等兵)は、1918年10月にパーゼヴァルクの予備病院に転属となり、そこでドイツの降伏を経験した。1943年のアメリカの秘密情報局の報告書(不確かな証拠に基づく)を根拠に、ヒトラーの視覚障害には顕著な心理的反応が伴っていたという説が浮上し、ヒトラーはパッサウの主任精神科医エドムント・フォースターのもとに連れて行かれた(記事「アドルフ・ヒトラーの精神病理学」を参照)。ヒトラー自身も、著書『我が闘争』の中で、革命の知らせを受けて政治の世界に身を投じることを決意したという伝説を広めている(「しかし私は政治家になることを決意した」)。最近の研究によると、ヒトラーはパーゼヴぁるくでの日々を後から「疑似宗教的覚醒」の一種として美化しようとしていた」・・・とあります。まあ、しかし積極的に宣伝する話でもないので、観光や集客の目玉として使われることはありません。

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
市の公式サイト
メクレンブルグ=フォアポメルン州の案内サイト
Liste der Baudenkmale in Pasewalk

Pasewalk Bahnhof

この駅のロケーションはややユニークです。右の写真では少しわかりにくいかもしれませんが、二本の路線に挟まれる形でその中にあり、駅前はバス停になっています。ノイブランデンブルクからシュテティン方面に行く列車をここで降りて、アンガーミュンデやグライフスヴァルト方面に行く際にはここで乗り換えます。駅舎はそこそこ立派ですが、無人駅であり中は荒れています。

独語 Eikiによれば「当駅は人口11,700人のパーゼワルク市の北郊外に位置しており、くさび形駅として設計されています。 


駅の東側はシュチェチン方面の列車が、西側はアンガーミュンデ方面の列車が発着します。2つの路線は駅の北側でつながっており、かつての2面操車場の広大な入換施設と貨物輸送施設が置かれていますが、1990年代以降はほとんど使用されていません」・・・とあります。

例によって東独の DR(Deutsche Reichsbahn)独特の駅文字です。

パーゼヴァルクは 1863年に鉄道網に接続され、ベルリン・シュテッチン鉄道会社がアンガーミュンデからベルリンとシュトラールズントを結ぶ路線を開通しました。 旅客および貨物輸送は 1863年 3月 16日に正式に開通しました。 パーゼヴァルクは、同時にシュテッチン(現在のシュチェチン)への支線が開通したことにより、鉄道の分岐点となりました。パーゼヴァルク市は鉄道建設に非常に興味を示し、1721平方メートルの土地を無償で提供しました。

1866年12月には、シュテッチンからメクレンブルク州境のシュトラスブルクまで路線が延長され、ビュツォウからの路線と接続しました。

1880年、ベルリン・シュテッチン鉄道会社と、それに伴いパッサウの周辺線路は、プロイセン国鉄に統合されました。1920年以降、パッサウはドイツ国鉄のシュテッチン鉄道管理局に属しました。

1927年には東側のプラットフォームへのトンネルが、1939年には西側のトンネルが運用を開始した。しかし、駅の東西を結ぶトンネルは建設されなかったため、駅の反対側に行くには、駅舎を通り抜けたり、迂回したりする必要があります。

終戦後、パーゼヴァルクは短期間、旧シュテッチン鉄道管理局(Reichsbahndirektion)のドイツ側にある残りの路線から構成される鉄道管理局(Reichsbahndirektion)の本部が置かれました。1945年10月には早くも、本部はグライフスヴァルトに移転しました。

かつて東西交通の要衝であったこの駅は、ポーランドとの国境線引きにより、その役割を中断された。その後、特に貨物輸送において再びその重要性が高まりました。1957年には、駅構内に4つの新しい連動塔が建設されました。1975年から1977年にかけて、1945年以降賠償としてソビエト連邦に引き渡された2番目の線路が再び2線に拡張されました。

駅を緩和するために、シャルロッテンホーフ駅ベリング分岐点の間の駅の北西に接続曲線が建設され、これによりノイブランデンブルクからグライフスヴァルトへの直通運転が可能となった。 シャルロッテンホーフ分岐点駅にはコンテナ駅が建設される予定であった。 パッサウウォーク事務所では、合計1200人の鉄道労働者が雇用されていた。

1988年5月28日、パーゼヴァルクからベルリンまでの電化運転が開始されました。

東ドイツの政治転換後、特に貨物輸送において、この駅の重要性は急速に低下しました。1990年代以降、線路システムの大部分は使用されていません。

2008年末、旅客輸送のための施設は大規模に改修されました。歴史的建造物として登録されているプラットフォームの屋根はそのまま残されました。

★★★ パーゼヴァルク Pasewalk -2- に続きます

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