- 2023-3-10
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★★★オストリッツ Ostritaz -1- からの続きです
前回、2016年 10月 8日にこの駅を通過した時はゲルリッツ(Görlitz)からツィッタウ(Zittau)に南下する途中でした。今回はゲルリッツに泊まるので、ツィッタウから北上する途上で、ここに途中下車して探訪します。
ある意味取るに足らないサイズの、無名の町オストリッツを採り上げてご紹介しようとしているのですが、実はこのナイセ川が「ドイツ・ポーランド国境」となっているということに触れた瞬間・・・パンドラの箱を開けてしまったようなヤバさを感じているのです・・・ちょいと大袈裟かな(笑)
この川が一言でドイツ・ポーランド国境だとはいえ、現在のドイツ連邦共和国とポーランド共和国の間で、公式にここが国境線だと合意されたのは 1990年 11月 14日の最終確認条約によります。そこから「そもそも何故ここがドイツ・ポーランド国境になったのか?」「それ以前はどこが国境だったのか?」「何故、以前の国境が変更されることになったのか?」・・・と、芋づる式に疑問が湧いてきます。
そこをちゃんと説明しようとすると「ポーランドの歴史」「ポーランド・リトアニア共和国」「ポーランド分割」から始まり「ブレスト=リトフスク条約」「ロシア革命」「第一次世界大戦」「ポーランド・ソヴィエト戦争」やその戦後処理としての「リガ条約」、また「ウクライナ・ポーランド戦争」などを芋づる式に調べることになります。
それはそれで非常に興味深く、今日のロシア・ウクライナ戦争の背景を理解したり、ポーランドとウクライナの関係を理解するには必須の勉強です。
ドイツを中心に歴史を追いかけていると、皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、第一次大戦が終結し、ヴァイマール共和政が樹立された一方でヴェルサイユ体制の巨額な賠償金支払いに苦しみ、それがナチスの台頭を許した・・・みたいな理解になりますが、その間ポーランドは資本主義陣営として共産主義ソビエトの西側進出の野望と戦い、一度はそれを撃退しリガ条約で国境を画定させるも、その後のヒトラーとスターリンの密約でまたまた地図から消えてしまうことになります。
第二次大戦前のポーランド領はは青い線で囲まれた部分でしたが(リガ条約で画定)、ポツダム会議での戦後処理の中でソ連がライトブルーの部分を占領し、黄色の部分を「回復領」と称して(ドイツ人を追放し)ポーランドに与えた結果、新しいポーランドは戦前から西にシフトした形になり、その国境は赤で囲まれた部分となります。
赤の国境線のうち西側の部分はオーデル川・ナイセ川ラインで、ドイツ民主共和国(東独)との国境となっていました。東独やポーランドはソ連の支配下にあったため、これに反対するすべはなく、東独は 1950年のズゴジェレツ(ゲルリッツ)条約でこれを正式に国境として承認したのです。
西独は(多分気持ちの上では東独も)ここを国境として認めるということは、ドイツの歴史的な領土という意識の根強い「黄色の部分」を失うことを意味し抵抗が大きかったのですが、西独のブラント首相が主導した東方政策により 1970年のワルシャワ条約(ワルシャワ条約機構とは関係ない)でこれに同意し、最終的に 1990年に統一ドイツ政府として、オーデル・ナイセ線をポーランドとの国境とすることを再確認したのです。
ポーランドとドイツの税率差を利用して、ポーランド側にある小さな店には「BILLIGE ZIGARETTEN(安いタバコ)」という看板が見えます。
独語 Wikipediaによれば「オストリッツの町は、ツィッタウとゲルリッツを結ぶナイセ渓谷鉄道に面している。1945年の(東独・ポーランド政府間での)国境画定により、ナイセ川の東にあったオストリッツ鉄道駅はポーランドのクルツェヴィナ(グルナウ)に移った。1945年に爆破された橋は再建されたが、橋台の幅が半分になっただけだった。1948年になって、当時のソ連占領地であったドイツとポーランドの当局が、通行できるようにすることに合意した。
それ以後は、鉄道のクルシェヴィナ・ズゴルゼレッカ駅(Krzewina Zgorzelecka)に通じる臨時の国境橋しか利用できなくなった。この橋はポーランド軍によって厳重に監視されており、決められたルートやホームから外れることは不可能だった。1990年代以降、ナイセ橋はオストリッツとクルシェヴィナ・ズゴルツェレッカの間の歩行者と自転車のための公式な国境横断路としても機能している。ポーランドの EU加盟に伴い、2004年に税関手続きが廃止されましたが、2007年12月にポーランドがシェンゲン協定に加盟するまでは、IDチェックが実施されていました。
オストリッツは、隣国ポーランドのボガティニアと覚書を交わし、バーンホフ通りにある仮設のナイセ橋を、少なくとも既存の橋台の幅を利用した新しい橋に架け替えることになった。これにより、車は再びナイセ川を渡ることができるようになる。また、マリエンタール地区の修道院橋の再建も決定された。ポーランドがシェンゲン協定に加盟し、政府レベルでの手続きが不要になったにもかかわらず、いずれのプロジェクトも資金不足のため、まだ実現には至っていない」・・・とあります。
今では、長閑な時間が流れるナイセ川沿いの小さな売店となっているこの小屋も、ポーランドの EU加盟・シェンゲン協定加盟前は税官吏や国境警部兵の詰め所だったのでしょう。そもそもこの周辺のポーランド領は戦前は歴史的なドイツ領で、西ドイツにはまだここの領有権を主張する向きもあり、何度も地図から消されたトラウマのあるポーランドとしては特別な警戒感があったものと思われます。