誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(30):マクデブルク Magdeburg -13-

マクデブルク Magdeburg -12- からの続きです

「三十年戦争のヒロシマ」とまで表現されるほど、徹底的な破壊と略奪に遭ったマクデブルクは、その後プロイセンに組み込まれ、新たな道を歩むことになります。プロイセンはここを「プロイセン最強」と呼ばれるほどの要塞都市に作り替えるのです。そのあたりを調べてみます。

独語Wikipediaの Magdeburgの項、町の歴史の Frühe Neuzeitを訳してみます。

1524年 7月 17日は、マルティン・ルターが 1524年 6月にマクデブルクで何度か説教をした後、マクデブルクのすべての教会で宗教改革が導入された日とされている。大聖堂だけはカトリックが残っていたが、1545年にブランデンブルクのアルブレヒト大司教(Albrecht von Brandenburg)が亡くなった後、20年間閉鎖された。マクデブルクが 1548年のアウクスブルク暫定会議を承認しなかったため、は皇帝カール 5世の支援を受けてマクデブルクに対抗した。ヒラースレーベンでマクデブルク軍が大敗した後、ゲオルク・フォン・メクレンブルク(メクレンブルク公ゲルグ Herzog Georg von Mecklenburg)は 1550年 9月 22日から 1551年 11月 5日までマクデブルクを包囲した。和平条約によって包囲は終了した。マクデブルクはその後、プロテスタントから「わが主の教会堂 Unseres Herrgotts Kanzlei」と呼ばれるようになった。

三十年戦争では、1631年 5月 20日(ユリウス暦では 5月 10日)にカトリック同盟の司令官ティリー率いる帝国軍によってマクデブルクは征服され、その後、炎上した(「マクデブルクの結婚式」)。この惨劇は「Magdeburgisieren」という言葉で悲しくも有名になった。住民の大半は侵攻してきた軍隊と火事で死んでしまい、数千人にまで減ってしまった。街は大きく破壊され、ほぼ完全に無人化した。2万人(3万人という説もある)の死者を出したこの事件は、三十年戦争の単一の大虐殺としては最大のものとされている。205枚のパンフレットと 41枚のイラスト入りリーフレットが、マクデブルクとその周辺での出来事を伝えている。1635年、プラハの和平条約により、都市と大司教区は、1628年にすでに行政官に選出されていたザクセン人のアウグスト王子に譲られた。1648年のヴェストファーレンの和約では、ブランデンブルク選帝侯にマクデブルク大司教のポジションが資格として授与されたが、これはザクセン選帝侯の行政官の死後にのみ発効することとなっていた。

オットー・フォン・ギューリケは、1626年から 1678年まで市議会議員、1646年から 1676年までマクデブルク市長を務めた。彼は物理学者でもあり、ピストン式空気ポンプを発明し、1654年からマグデブルグ半球を使った有名な真空実験を行った。

1680年、ザクセンのアウグストの死後、マクデブルク公国として世俗化していたマクデブルク大司教区がブランデンブルクの支配下に入り、マクデブルク市もブランデンブルクの支配下に入った。マクデブルク市は当時のホルツクライス Holzkreisに位置していたが、いわゆる Immediatstadtとしてマクデブルク公国の政府の直轄となり 1714年に公国の首都となった。1681年 6月から 1682年 1月にかけて、マグデブルグを襲ったペストは、少なくとも 2,649人の命を奪った。

1685年 10月 29日、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムのポツダム勅令により、フランスからの宗教難民を国内に移住させることになった結果、マクデブルクにフランス植民地が設立された。1689年 4月 13日には、選帝侯フリードリヒ 3世からマンハイム追放者の入学申請が認められている。その結果、プファルツコロニーが設立された。どちらのコロニーも、都市の中で独立した政治的共同体を形成しており、旧市街とは空間的に分離されてはいなかった。彼らは独自のラートハウス、市長、裁判所、そして市民のガードマンを持っていた。そのメンバーは選帝侯、後には国王の保護を受けていた。1666年、ブランデンブルク選帝侯は、ウェストファリアの和約を守るため、オットー・クリストフ・フォン・スパーと 15,000人の軍隊に命じて、当時人口が 1,000人に満たなかったこの街を包囲した。そして、三十年戦争で破壊された要塞を再建させたのである。18世紀には、マクデブルクの要塞はさらに拡張された。フリードリヒ 2世の時代には、要塞は 200ヘクタールを占めていたが、一方で都市の面積は 120ヘクタールにとどまっていた。その後、マグデブルクはプロイセン最強の要塞として何度も言及されている。1806年 11月 8日、第四次対仏大同盟戦争でフランス軍に正式な包囲戦を行わずに降伏した。

無血開城する「最強の要塞」ってなにさ、それ?って突っ込んでみたくもなりますが(笑)

まず、要塞の跡を紹介している動画を紹介します。

独語Wipipediaの「Festung Magdeburg」の項目を訳しておきます。

三十年戦争までの発展

マクデブルクの最初の要塞化は 13世紀にまで遡ることができる。当時の城壁は、現在の旧市街北部の Krökentorと Otto-von-Guericke-Straßeの間、および大聖堂の真南を囲むように存在していた。そこには Fronereiturmという名前の有名な塔が置かれていた。遺跡は Wallonerkirche – Tränsberg地区に保存されている。火器の発達により、それまでの要塞では敵の攻撃に耐えられなくなった。そのため、1450年から 1550年にかけて、マクデブルクの都市要塞の大規模な改築・拡張工事が行われた。その内容は、新たな城壁の建設、第二の城壁と新たな堀の建設、エルベ河畔の最初の要塞化、砲台を備えた新たな城門の建設などであった。また、要塞はエルベ川の東岸にまで拡張された。このようにして強化された要塞は、1550/51年にルター派の宗教改革の導入に関連して「帝国アハト刑Reichsacht)」が行われた際の無益な包囲において、その価値を発揮した。マクデブルクの要塞は、三十年戦争中の 1629年の包囲戦にも耐えた。戦争が進むにつれ、スウェーデンの大佐ディートリッヒ・フォン・ファルケンベルクの指揮のもと、要塞の深さは 40メートルから 150メートルに拡張された。門の前には、堡塁(Schanze)や角堡(Hornwerk)が築かれていた。しかし、南方戦線の延長がおろそかになっていたため、1631年に帝国軍はこの時点で奪取に成功したのである。パッペンハイム将軍の命令で要塞は取り壊された。

プロイセンの最強の要塞

三十年戦争が終わるまで、マクデブルクの運命はマクデブルク大司教区によって導かれていたが、その後はブランデンブルク・プロイセンの支配下に置かれた。選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、1666年に要塞の修復を命じた。まず、エルベ川の前線を強化し、Cleveの堡塁(Bastion)を作った。市街地の堀の前には胸壁による防御が築かれ、エルベ川沿いのヴェルダー島には約 800m²のマクデブルクの城塞が築かれた。1702年、マクデブルクの総督であるアンハルト・デッサウ公レオポルド 1世の指揮のもと、第二次拡張が始まった。1713年には、11本の帯状の防塁が作られた。要塞設計者であるハンス・マルティン・フォン・ボッセ(Hans Martin von Bosse)とゲルハルト・コルネリウス・フォン・ヴァラーヴェ(Gerhard Cornelius von Walrave)のもとで行われた第 3次建設段階では、さらに 11の堡塁が建設され、トゥルムシャンツェとベルゲ砦も建設された。1740年までに、北側戦線の要塞の深さは 400メートル、西側戦線の深さは 600メートル、南側戦線の深さは 300メートルから 600メートルになっていた(*)。防御工事全体で 200ヘクタールの面積があり、120ヘクタールの市街地と対比されていた。

(*)Um 1740 waren die Festungswerke der Nordfront 400 Meter, der Westfront 600 Meter und der Südfront zwischen 300 und 600 Meter tief gestaffelt この翻訳ですが、ホントに深さ 600メートルも掘ったんですかね。油田や温泉のボーリングがあるまいし(笑)なんかピンときません。

19世紀の要塞化拡大

1806年当時、プロイセン最強の要塞と言われたマクデブルクは、1806年 10月 28日から 11月 8日までので包囲され、フランツ・カシミール・フォン・クライストによってナポレオン軍にほとんど戦わずに降伏したのである。1807年、マクデブルクはフランスのヴェストファーレン王国に併合され、エルベ川沿いのフランスの防衛線の重要な一角を占めるようになった。要塞のさらなる拡大のための最も重要な施策は、Glacisanlagenの拡張であり、それに伴ってノイシュタットとスーデンブルクが移転されたのである。彼らの以前の地域は、自由な戦場としてレイヨン(*)を宣言した。1813年から 1814年にかけての解放戦争では、マクデブルクはプロイセン・ロシア軍の包囲にも耐えた。ナポレオンの敗北後、プロイセン軍は 1814年 5月 24日に再びこの街に入った。新プロイセン様式の導入に伴い、マクデブルク要塞は新たな拡張と防御の再構築を行った。城壁は近代化され、エルベ川の岸辺はさらに要塞化され、要塞の門は新設または再建された。要塞内には兵舎や兵站庫などの軍事施設が数多く建てられていた。1840年に完成したマクデブルク-ライプツィヒ間の鉄道と、それに続く鉄道網の整備は、マクデブルクの防衛体制に大きな変化をもたらした。鉄道路線を市内に導くためには、新たな鉄道ゲートを建設する必要があり、1840年に完成したアルテ・ライプツィガー・トーアがその先駆けとなった。1873年までに、要塞帯には合計 8つの鉄道ゲートが建設された。「ライフル銃身」の導入により、再び要塞化の必要性が生じた。この目的のために、1866年以降、中核となる要塞から 1,000~3,000メートル離れた場所に 14の要塞が帯状に建設された。レイヨン地区が拡張された後、1890年から 8つの中間施設を建設して要塞ベルト(要塞群)の建設が開始された。

(*)レイヨン(Rayon):軍の要請により土地所有者に一定の法的規制による建築制限が課せられた、要塞周辺の限定された区域のこと。レイヨンにはレイヨンストーンが付いていた。砦の前に明確な射場を作り、無人の空間をできるだけ少なくする必要があった。これは、前庭に敵の身を隠すことができるすべての物体を排除し、さらに、潜在的な敵の主な接近経路を横切る射撃レーンを確保することを意味していた。これに関する法的規制が制定されたのは比較的遅かった。その歴史は19世紀にまで遡る。

Forts um Magdeburg.jpgGemeinfrei, Link

Rayonhaus md.jpgGemeinfrei, Link

要塞の解体

1886年 12月 8日の勅令でドイツにおける要塞の一般的な解体が決定された後、1900年 1月 23日の勅令でマクデブルクの要塞の地位は取り消され、要塞の敷地は売りに出された。市は要塞の放棄を利用して土地の大半を取得し、住宅開発の拡大とインフラの整備を行った。北部では 1886年に法人化されたノイシュタットへの接続ができ、西部ではヴィルヘルムシュタットが建設され、南部の開発では 1887年に法人化されたブッカウへの接続が確立された。1888年にはすでに城門の解体が始まっていた。2つの大きな要塞、シュテルン砦とシタデルは、それぞれ 1903年と 1922年に取り壊された。西側の戦線でのみ、要塞の大部分が残っていた。5つの砦は完全に撤去され、他の砦は最初は民間用に改造された。第二次世界大戦後は、その名残を残すのみとなった。」

こちらに要塞の遺構が画像入りでリスト化されています。

また「要塞」に関連する言葉は対応する和訳を見つけるのが難しく、AI翻訳では一律に「堡塁」と訳されたりします。軍事史の本で調べれば対応する訳が見つかるとは思いますが・・・このくらい細かく分かれているというのを独語 Wikipediaの「Festung」から引用しておきます。

Vesting index.jpg
Gemeinfrei, Link

マクデブルク Magdeburg -14- に続きます

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