誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(30):マクデブルク Magdeburg -12-

マクデブルク Magdeburg -11- からの続きです

さて、神聖ローマ帝国の初代皇帝とされるオットー1世によって大司教区が置かれ、スラブ部族が住んでいたエルベ川の東のキリスト教化(カトリック布教)の拠点として重要な役割を果たし、また東の地域の集落が都市に格上げされる際に、その権利や法体系のテンプレートとしてマクデブルク法がデファクトスタンダードになるなど、中世においては揺るぎない地位を獲得していたマクデブルクですが、そのまま第二次世界大戦で壊滅的に破壊されるまで順風満帆に発展していったのかというと、さに非ず!三十年戦争の際に一度壊滅的な破壊に遭っているのです。Weltのオンラインサイトの記事によれば「三十年戦争のヒロシマ」とされるほど酷い破壊だったようです。そのあたりを調べてみます。

Magdeburg um 1600.jpgGemeinfrei, Link

↑↑ 1600年頃の、豊かに栄える商業都市マクデブルクを描いた絵(Jan van de Velde (1569–1629))
↓↓ これとほぼ同じ視点から描かれたマクデブルクへの攻撃

Sack of Magdeburg 1631.jpgsupposedly 1659 ed., Gemeinfrei, Link

徹底的な破壊と略奪が起こったのは 1631年 5月のことですが、まずそこに至る伏線があります。カトリックの大司教座が置かれ、その拠点としての大聖堂(Dom)があるマクデブルクは基本的にカトリックの拠点だったわけです。ところがそのカトリックの腐敗に対して「No!(ドイツだから Nein!か(笑))」を突き付けたのが、あのマルティン・ルターだった訳です。そしてマクデブルクはプロテスタントの拠点となります。

独語Wikipediaの一節を翻訳しておきます。「宗教改革の時代、マクデブルクはプロテスタントの拠点となったが、それはマクデブルクの大司教である Albrecht von Brandenburgが免罪符の販売に積極的であったため、市民の反感を買ったからである。彼の命を受けて、ドミニコ会のテッツェルが免罪符の伝道師として国中を回った。1517年、ルターはこれを動機とした「95ヶ条の論題」で宗教改革を開始した。大司教区の大聖堂の所在地であり、大司教区の首都であると同時に、裕福な長距離貿易商が多く存在する豊かな貿易都市でもあるマクデブルク市は、1524年には早くも宗教改革への支持を表明し、1531年にはシュマルカルデン同盟に加盟した。1545年のアルブレヒト枢機卿の死後、マクデブルク大聖堂は 20年間閉鎖され、1567年には市内の他の教会と同様にプロテスタントに引き継がれた。」

「その後、マクデブルクは再カトリック化に対する抵抗の中心地として発展していった。シュマルカルデン戦争でカトリック軍から逃れるためにヴィッテンベルクから逃げてきた学者たちが「わが主の教会堂 Unsers Herrgotts Kanzlei」に集まり、反カトリックの文章を書いた。そのため 1547年から 1562年まで、マクデブルクは皇帝の追放を受けていた。アウグスブルグ暫定会議の承認を拒否した後、マクデブルクは「プロテスタントの聖なる防衛都市 Heilige Wehrstadt des Protestantismus」と呼ばれた。」・・・などとあります。

こういう伏線の上に、カトリック対プロテスタントという三十年戦争の構図の中で、カトリックの神聖ローマ皇帝軍によって、謂わば「見せしめ」の為に徹底的な破壊と略奪を受けたということです。

Magdeburg 1631.jpgGemeinfrei, Link

この破壊と略奪に関しては日本語Wikipedia独語Wikipediaに解説があります。比較的よく纏まっているので日本語版を引用させて貰いますが、関心のある方は是非独語版もお読みください。

マクデブルクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マクデブルクの戦いMagdeburgs Opfergang あるいは Magdeburger Hochzeit)は、三十年戦争において1630年11月から1631年5月20日にかけて、カトリックである神聖ローマ帝国軍によって行われた、ルター派プロテスタント)のハンザ同盟都市マクデブルクの包囲戦及び戦闘終了後の略奪。略奪についてはマクデブルクの惨劇[1]といった表現も用いられる。

ゴトフリート・ハインリヒ・グラーフ・フォン・パッペンハイム及びティリー伯ヨハン・セルクラエスに率いられた皇帝軍は富裕な都市マクデブルクを包囲した後陥落させた。

都市陥落後には傭兵で構成される兵士たちの制御が利かなくなり、住民の虐殺と略奪、市内への放火(同市は3日間燃え続けた)が行われた。この結果、3万人いた市民のうち生き残ったものはわずか5千人程となった。そのほとんどが女性であり、皇帝軍の兵士達による強姦の対象となった[1]。その後14日間にわたり、伝染病を防ぐため死体がエルベ川のほとりまで運ばれて火葬された。

この事件はプロテスタント陣営に大きな衝撃を与えた。マクデブルクの惨劇を巡ってはプロテスタント、カトリック双方から激しいプロパガンダ合戦が行われたが、事件の性格上、プロテスタント側のプロパガンダが説得力を持った。それまでグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍に、冷ややかな目で見つつ協力に消極的であった北ドイツのプロテスタント諸侯は、こぞってスウェーデン軍への協力を進めた[1]

その後、プロテスタントが命乞いをするカトリック教徒の捕虜を殺害するに際して「マクデブルクの正義」または「マクデブルクの命乞い」という言葉が使われた。

壊滅的な打撃を受けたマクデブルクでは、ヴェストファーレン条約発効の時点で人口が450人しかいなかった。

Die Plünderung Magdeburgs (Die Magdeburger Jungfrauen), Historiengemälde von Eduard Steinbrück, 1866

独語版Wikipediaでは、この事件のことを「Magdeburger Hochzeit」と呼んでいます。普通に訳せば「マクデブルクの結婚式」となるのですが、記事の冒頭でなぜこんな、ふざけた名前がついたのかが説明されています。

「マグデブルクの結婚式 Magdeburger Hochzeit」(あるいは Magdeburgs Opfergang)とは、三十年戦争中の 1631年 5月 10日に、ティリーとパッペンハイム率いる帝国軍によってマグデブルクの街が壊滅的な打撃を受けたことを指す。

皇帝への上納金の支払いにすでに 100年以上も抵抗していたマグデブルクの町の紋章に描かれた乙女と皇帝との強制結婚を意味する「マグデブルクの結婚式」という皮肉な言葉が直後に生まれた。現代の年代記『Theatrum Europaeum』によれば、この言葉はティリー自身にまで遡ることができる。
「その後、丸3日間連続して飲食(略奪・凌辱)が行われ、こうしてマグデブルクの結婚式(ティリーがそう呼んだ)が祝われた。」

また、その影響についてはこう書かれています。「1631年 5月 20日の戦争行為により、マクデブルク市民約 2万人が死亡した。「マクデブルクの結婚式」は、ヨーロッパ中に恐怖を与えた三十年戦争中の最大かつ最悪の虐殺とされている。その行為と恐怖は「言葉を超え、涙を超えた」と言われている。生存者の多くは、破壊によって生活の糧を奪われたため、街を離れなければならなかった。その後に発生した疫病では、さらに多くの命が奪われた。1631年 5月 9日にはまだ 35,000人ほどがいたマクデブルクの人口は、1639年には 450人にまで減少し、戦前のドイツで最も重要な都市の一つであったマクデブルクは、その影響力を一気に失い、その発展は数世紀に渡って後退した。マクデブルクがかつての人口に達し、それを上回るようになったのは19世紀になってからである。

マグデブルク壊滅後の長い間、「完全に破壊する、一掃する」の同義語として、あるいは「最大級の恐怖」の象徴として、「magdeburgisieren(マクデブルク化する)」という言葉がドイツ語に入っていた。」

これって、私が住んだことのあるハンブルクを、戦況が決してから大爆撃されたドレスデン同様に大爆撃した英国空軍の爆撃機部隊が、それを「Hamburgieren(ハンブルク化する=焦土化する)」というのと同義語ですね。

なお、ルターが 1522年にドイツ語に翻訳した聖書が広まったのは「印刷機」が発明されたから・・・ということになっています。ということは三十年戦争の時代(1618-1648年)には、既に印刷機は十分普及していたわけで、これがプロパガンダ戦争を生み出します。それを書いているのが Weltのオンラインサイトの記事「三十年戦争のヒロシマ」なのです。多少なりとも「印刷」に関わる身として、フェイクニュースやプロパガンダの原点を見る思いです。独語の読める方も、そうでない方も(Google翻訳などでかなり読めます)是非お読みください。

マクデブルク Magdeburg -13- に続きます

関連記事

ページ上部へ戻る