誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(30):マクデブルク Magdeburg -11-

マクデブルク Magdeburg -10- からの続きです

旧東独地域や東欧の町の歴史を独語Wikipediaで調べていると「Magdeburger Stadtrecht(マクデブルク都市法)が授けられた」という記述が頻繁に出てきます。典型的なパターンは「★★という町は、850年に初めて文書にその名前が登場し(存在が公式に確認され)、1230年に都市となり、マクデブルク法が授けられた」などというものです。中世においては「Stadt 都市」というのは自治権や市場を開催する権利など様々な特権を与えられていましたが、その権利体系・法体系を個別にゼロから作るのでは大変なので、謂わば「テンプレート」的なものとしてマクデブルクに由来するものが広く使われたということのようです。このあたりを調べてみます。

Uenglinger Tor Stendal 2016.jpgCC BY-SA 4.0, Link

例えばザクセン=アンハルト州のシュテンダール(Stendal)の項には「ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト1世は、1160年頃にシュテンダールの村に市場を設立し、マクデブルク都市法の権利を与えました。発掘調査により、シュテンダールの「Alten Dorf」の南にある市場のエリアの土地での建設が 1160年頃に始まったことが確認されました。」という記述があります。

Wroclaw-Rathaus.jpgCC BY-SA 3.0, Link

ブレスラウ Breslau(今のポーランドのヴロツワフ)の項には「町は 1241年のモンゴルの攻撃で破壊されましたが、その後20年間でドイツ人入植者によって再建されました。1261年、ブレスラウはマクデブルク都市法の権利を取得しました。」とあります。

日本語Wikipediaには「マクデブルク法(独: Magdeburger Recht)は、神聖ローマ皇帝のオットー 1世により作られた、地域の支配者による市や村の情勢に対する法で、内容は都市の自由を守り抜く規定と並んで、商法、刑法、訴訟法、手続法などの条文が大部分を占める。長いあいだ神聖ローマ帝国の有力都市であったマクデブルクの自治権をモデルとするために同市の名を冠しており、中欧で中世の都市法で最も重要なものである。」とあります。

「この法は、ドイツ都市法の基礎となり何世紀の間に神聖ローマ帝国で発展した。重要な事ではボヘミア、ハンガリーやポーランドの君主達がマクデブルク法を採用し修正している、同法は何千もの都市や村の発展を促し、都市化へ画期的な法となった。中世の法として、この権利の主な対象とされていたのはこれらの市で1番重要な住人の商人と職人であった。中世ポーランドでは、ドイツ人とユダヤ人は国王の都市化開発ポリシーの市や街で招聘された。ドイツ人やユダヤ人は、これらの市で競合者であったが、彼らは裁判管轄の対象ではなかった。特権は、法により地域自治権で保護されていた。

マクデブルクはハンザ同盟加盟メンバーの中で、マクデブルクは重要な貿易市の 1つであった。 西のフランドル、東のバルト諸地域、ドイツ内陸のブラウンシュヴァイクなどと商売をしていた。13・14世紀の古ドイツ法体系の中で最も発展していたマクデブルク法は数多くの都市に適用され、その適用地域の北端・東端はロシアにまで及んでいた。その中にはシュレースヴィヒ、ボヘミア、ポーランドなどの近隣地域はもちろん、文化的差異の大きかったポモジェ、プロイセン、リトアニア(キリスト教化後)、ウクライナにまで拡がり、おそらくモルダヴィアでも適用されていた。これらの地域ではマクデブルク法をドイツ法あるいはテュートン法と呼んでいた。

同法が適用された都市はマクデブルクの地方裁判所を最高裁判所としていたため、マクデブルクはリューベックとともに北ドイツ、ポーランド、リトアニアの法律を実質的に支配しており、都市法によって結ばれた「家族」にとっての最重要の心臓部として機能した。この重要な役割は、1495年の帝国改革によって設立された、帝国裁判所の権威の高まりと共に古ドイツ法がローマ法に取って代わられるまで続いていた。

ユダヤ人は国王や皇帝との慎重な交渉をし優先庇護を得ていた。ユダヤ人は「保証人(Gewährsmann)」になれない、ユダヤ人の物品の入手に関して、それを購入したか抵当物件として手に入れたのかを区別されることなく、その物品の完全な所有者として認められるようになった。ユダヤ人がキリスト教徒やキリスト教徒の召使に肉を売る事を許可した。」とあります。

(画像はクリックすると拡大します)

上の地図は「Das Magdegurger Recht」というサイトからの引用ですが、赤い点はマクデブルク法が与えられた都市の分布を示しています。左の地図はオットー1世の時代の「ドイツ」ですが、エルベ川の東側はスラブ人が住んでいた地域で、ここにマクデブルク法を与えられた都市が広く分布していることが分かります。

独語Wikipediaには「マクデブルク法の普及」として「早くも1160年以降、つまり完全な都市自治の権利としてマクデブルク市法が発展する前に、シュテンダールはマクデブルク市法を与えられていた。マクデブルク法はその後、「ノイジーデルゲビート Neusiedelgebiet」(新開拓地)に新しくできた多くの町にそれぞれの町長から与えられ、場合によってはマクデブルクより西(現在のニーダーザクセン州)の地域にも影響を与えた。そして何よりも、開拓の過程でMark Brandenburg, Pommern, Preußen, Thüringen, Sachsen, Schlesien, Böhmen, Mähren, Lausitzなど、東へと広がっていったのである。」とあります。

また今回は深入りを避けますが、この東への広がりは「Slawenmission」と呼ばれる、スラブ人地域のカトリック化(Christianisierung)とシンクロしているわけです。

また、これも今回は深入りを避けますが、テンプレートとしての都市法はいくつか存在し、中でもリューベック法は、ハンザ同盟の盟主として商人や船主の権利などの規定が充実していたのでハンザ同盟都市に広がったようです。またその原型となるのは「Soest」という町に由来する「Soester Stadtrecht」などもあります。

マクデブルク Magdeburg -12- に続きます

関連記事

ページ上部へ戻る