三十年前のドイツ(46):Erste Rundfahrt durch die DDR 初めての東独の周遊ドライブ ー1-

1990年 5月の半ば、駐在していたリューネブルクの工場の上司と同僚を誘って東独北部を巡るドライブに出かけました。既に 4月末に単独で「潜入」を果たしているので、先輩気取りでドヤ顔でツアコンをやったものです(笑)これも当時のメモが残っているので、まずはそれをアップします。

ちなみに、前のシリーズでは「Erste Einreise in der DDR」という文法ミスをしました(修正済み)。Ein-reiseと入っていくわけですから4格(Akkusativ)ですね。今回は「国内でのドライブ:Rundfahrt」なので大手を振って3格(Dativ)を使います。Rettet DEM Dativ なんちゃって(笑)

※追記:その後「Die Rundfahrt」には durchが対応するのが一般的で、そうすると Dativではなく Akkusativeが対応する・・・Erste Rundfahrt durch die DDRとするのが正しいようで・・・dieに修正しました。益々 Rettet DEM Dativだ(笑)

今回は前回の単独行とは違って、運転手も3人いるのでかなり大胆に東独の北部を周回するルートです。アウトバーン24号線でベルリン方向に向かい、途中で北に分岐してシュヴェリンを目指します。その後は時計回りに周回します。太字になっている町が車を停めて歩いてみた町です。

同僚を誘って東独にドライヴに出かけた。

私は初めてではなかったがあとの二人は国境が開いてからの入国はこれが初めてであった。かつてソ連にプラント建設で駐在したことがある上司のMさん。ルーマニアや東独にも仕事で深い関わりを持ち、東への思い入れは並みではない。同僚のS君、好奇心の塊である。10人余りいた同僚達に、東独に行きませんかと持ちかけたら、真っ先にこの二人が反応し...そしてこの二人だけであった。

よく晴れた5月末の休日の朝、ラウエンブルグの国境から無人地帯の一本道を東独側の検問所に向かう。ベンツのサンルーフを開き、屋根からビデオをつきだして風景を撮る。そんなことはあり得ないとわかってはいても、どこかから狙撃されるのではないかという妙な想像をしてしまう。

東独の検問所、ホルストでビザを取得しインターショップをひやかす。ものものしい検問所の設備や監視塔などの写真を撮る。「真面目に」警備をしていた時代と違って銃を持った兵士が見あたらない。するとこういう設備が一転して馬鹿馬鹿しく見えてくるから不思議なものだ。


かつては無茶苦茶不気味に見えた監視塔 BT11
(Beobachtungsturm 11) 高さが 11m

検問所を過ぎるとボイツェンブルグが最初の町である。途中、道路の横に舗装されていないスペースが延々と並行して続いている。有事の時の戦車道ではないか?数キロ走るとまた検問所がある。ここではもう検問をしていないが、かつてはここから西には容易なことでは行けなかったのだろう。今はイタリアンアイスの屋台が出ていた。

やがて右手にボイツェンブルグの造船所(Werft)が見えてくる。主に河川や湖の遊覧船を作っているらしいが、閉鎖されるのではないかという話が持ち上がっていた。町の中は...ボロボロだった。壁を補修していないのであちこち漆喰が剥がれてそのままになっている。モルタルの上のペンキを塗り直していないのか、そもそもそういう色なのか、壁がどす黒い。木製の窓枠のペンキを塗り直していないので腐りかけている。道路はアスファルト舗装せず、石畳なのはいいのだが、平坦ではない。

駅の近くは幅の広い道の両側に高い建物は無く、妙に閑散としている。派手な色彩は一切無い。たまに風景の中に浮いたような派手な色合いがあるとすれば、それは西側のビールの看板とかタバコ会社のロゴの入ったパラソルだったりする。

ルードヴィッヒスルストのあたりでソ連軍の基地の横を通る。後に、巨額の費用や、帰郷した兵士の住宅までもをドイツに負担して貰って撤退することになるこの駐留ソ連軍の基地は、この時点ではもちろん健在で、走っているとあちこちにあった。真ん中が四角錐のように突き出た白いブロックのさほど高くない塀が特徴で、要所要所に見張塔があり、鉄の門には赤い星が付いていた。

近くを通りかかり、ベンツだと見るや数人の兵士達が道の脇に飛び出してきて何か棒のようなモノを突き出して振っている。おや、検問か?にしては緊迫感がない。近くになってよく見ると振っていたのはタバコのカートンであった。横流し物資なのだろうか?そういえば、基地からカラシニコフ銃や銃弾を持ち出して闇ルートに流しているという物騒な話もよく聞いた。検問所以上に無用の長物になった駐留ソ連軍の兵士達のモラルは地に落ちているということだった。

シュヴェリンの町中もまだまだボロボロだった。でも流石に、その後メクレンブルグ-フォアポメルン州の州都の座をロストックと争って勝っただけのことはある町で、店には西側資本の物資や看板がいち早く並び、いくつかの建物は補修が施されようとしていた。町の周りの道路には “Zimmer Frei”(民宿)の看板がたくさん出ていた。ホテルはまだ充実していないところへビジネス客や観光客などの需要が急増し、少しでも西のマルクが欲しい一般の家庭が供給を産み出していた。


路上ではベトナム人とおぼしき連中が海賊版のテープなどを売る露店を開いていた。西独にはトルコ人が多いのだが、東独にはベトナム人が多いようであった。彼らはその後、台頭してきたスキンヘッドのならず者達に少なからず標的にされることになる。日本人もベトナム人と間違われやすいから気をつけるようにという注意書きがどこからともなく回覧されたこともある。その後統一されてからも、アジア人は旧東独地域では危険だという話があって、好奇心の旺盛な私でもどうしても一人のドライヴは二の足を踏みがちであった。

ガストロノームと書かれたインビスがあった。おお、ガストロノームじゃないか...とソ連駐在経験のあるMさんが懐かしそうな声をあげる。なかはセルフサービスのインビスだ。西では見られないブランドのジュースやコーヒー飲料らしきものが売られ、ソーセージののったパンが並んでいた。値段は西の半額くらいの感じだったろうか。値段表をビデオに撮っていたら怒られてしまった。

ヴィスマールはかつてのハンザ都市で、西独の有名なデパートチェーン「カールシュタット」の発祥の地ということであった。遠くから見るとバルト海に面した港にクレーンが建ち並び、煉瓦造りの大きな教会がいくつか見える。

町中に車を駐車してマルクト広場まで歩いてみる。途中の建物の壁に電話機のマークの入った看板が取り付けてあった。公衆電話のある方角を示しているらしい。公衆電話など、ありふれてどこにでもあった日本と比べ西独は数が少なかったと思うが、それと比べても東独はもっと少なかったことであろう。
マルクト広場は駐車場になっておりトラバントの海であった。ヴァッサークンストと呼ばれる装飾的な水くみ場や、特徴的な破風の建物が並んでいる。近くに寄ってみると、例によって壁はボロボロだった。


バルト海に面した保養地は、まだシーズンには少し早過ぎるのか人影はまばらであった。それでも休日なので海からの強い風の吹く中を堤防沿いの道を散歩する人たちがいた。北海にしてもバルト海にしても、北の海に面した保養地はどこか共通の雰囲気がある。光のせいだろうか。ここも貧しいとはいえ同じ光が射していた。あと何年か経てば見違えるようなリゾートになるだろう。

FDGBという大きなロゴを付けたホールの様な建物があった。Freie Deutsche Gewerkschaft Bund の略で、そういう方面の幹部特権階級の為の保養施設なのだろう。おそるおそるドアを開けて中を覗いてみたが、パーティを開くホールや、屋内プールなどがあるようだった。人影はなく、薄暗かったが、分厚い薄茶色の型物ガラスのシャンデリアや、幾何学模様デザインの壁、労働の喜びと家族の幸せ見たいな壁画など、えもいわれぬ社会主義国独特の内装の様式であった。


ロストックにはヴァルネミュンデと呼ばれる海の方からアプローチした。流石に造船所を中心とした工業都市だ。ロストックに繋がる高速道路の両脇には巨大な団地群が並んでいた。後に造船所の経営が悪化して、その命運が新聞をにぎわす度に、あの巨大な団地がまるごと失業するという想像をしてため息が出た。

町中は結構賑わっていた。ここもまず間違いなく手ひどい爆撃を受けたものとおもわれるが、残った煉瓦造りの建物のいくつかは堂々とした立派な物である。これも戦前を想像してため息がでるのである。


ロストックとは対照的に、ノイブランデンブルグの町は閑散としていた。港町でもなく、さしたる産業があるようでもなく、町の四方に残るかつての城門だけでは大量に観光客を惹きつけるにはやや魅力にも乏しいのだろう。ドイツ軍がここから撤退するに際して、自らこの町を爆破して廃墟にせよ、敵に何も残すな...というヒトラーの指示があったという話もどこかで読んだような気がする。この写真のような様式の建物は、戦後製鉄所を建設するのに労働者の町ごと造ってしまったアイゼンヒュッテンシュタットのそれに似ているように思う。戦後の社会主義風建築なのだろう。

すこしはずれるともう少し低層の労働者用アパートがある。外壁のモルタルの色はどす黒い土色で、それに似たようなのは後にマグデブルグの東にある労働者団地で見かけたことがある。これもまた社会主義様式なのであろう、建物の一角に大きなガラス張りの部分があった。レストランであるが休日なのに電気が消えていた。

ヨ~イ、ドン!で「復興」のスタートラインに立った東独の各都市であるが、その立地条件によってこれからの発展の度合いに差がついて行くんだろうなということを予感させる町であった。

三十年前のドイツ(47):Erste Rundfahrt durch die DDR 初めての東独の周遊ドライブ ー2-に続きます。

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