- 2021-7-31
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ドイツの第二テレビ放送(ZDF)による「ドイツ人(Die Deutschen)」という特集の第二回目「オットーと帝国(Otto und das Reich)」を観ていると、オットー1世(大帝)がマクデブルクに城壁を築き、そこに教会・大聖堂(Dom)と王宮(Königspfalz)を築いて都市として発展させたことが描かれています。その一方で、当時は「王は首都に定住してそこから国を支配する」ということではなく「支配者(皇帝・王)はその支配地域を移動しながら統治したとされており、その際の宿泊場所が Königspfalz」という状況だったようです。そのあたりを調べてみます。
ドイツ語Wikipediaの「Königspfalz」の項目には日本語版が無いのですが、仮に「宮殿」としておきます。また中文版は「皇帝行宮」と訳されています。また英語版には「Kaiserpfalz」とあります。なにか、このあたりの「首尾一貫性に欠ける」というのが気になりますが、独語版を翻訳したなかに答えが隠されています。
「中世初期・中期には、宮殿は旅する王の(居住)拠点として理解されていた(まれに、王を受け入れる義務のある領主としての司教のためのものもあった)。
中世の神聖ローマ帝国の王は、首都から支配するのではなく、できるだけ「その場」にいて、家臣と個人的な接触を保つ必要があった(遍歴王制・巡回王権 Reisekönigtum)。宮殿は神聖ローマ帝国の支配者として王が建設・使用したものなので、歴史的には「ケーニヒスプファルツ」と呼ばれている。カイザープファルツという言葉は 19世紀の呼称で、国王は(ローマ教皇による)戴冠式を経て初めてローマ皇帝の称号を得たという事実を見落としている。王宮(Königshof)は、旅する王が領主としての機能を発揮する宮殿(Königspfalz)とは異なり、王が所有する経済的資産に過ぎず、移動中の王の居住地としての役割しか持たない。
宮殿は主に大規模な荘園で構成されており、王と数百人に及ぶ従者、多数の客とその馬に食事と宿泊を提供していました。ラテン語では、このような王宮を「ヴィラ・レジア」または「クルチス・レジア」と呼んだ。それらは、司教座、大規模な修道院、残された都市の名残、あるいは王室の領地の中の開けた土地に置かれていた。宮殿は通常 30キロ間隔で建てられていたが、これは当時の馬の一日分の距離に相当する。
宮殿は、少なくとも宮殿、宮殿の礼拝堂、地所から構成されていた。王や皇帝はここで公式な行為を行い、宮廷会議を開き、高貴な教会の祭りを祝った。また、多くの宮殿は、王家の所有物である森林に近いため、狩猟が容易だった。
支配者たちが訪れる宮殿は、その方向性によって変化していった。特に重要だったのは、王が冬を過ごす宮殿(冬の宮殿)と、復活祭が最も重要な祭礼の宮殿(復活祭の宮殿)だった。より大きな宮殿は、特別な権利(皇帝の自由など)を持つ町に置かれることが多かったが、司教の邸宅や皇帝の修道院であることもあった。」
なるほど・・・宮殿は通常 30キロ間隔で建てられていたが、これは当時の馬の一日分の距離に相当する。・・・だから至る所に宮殿(Königspfalz)があったということですね。ここにそのリストがあります。
独語Wikipediaの「遍歴王制・巡回王権 Reisekönigtum」の項を訳してみます。
「旅する王権は、フランク時代から中世末期まで、王や皇帝による通常の統治形態であった。中世のドイツの王たちは、首都から支配することはなかった。カロリング王朝時代には主に宮殿(Pfalz)に滞在し、10世紀には帝国の修道院(Reichsabtei)が、11世紀には司教座(Bischofssitz)が加わり、従者を伴って帝国内を移動した。これは、中央集権的な統治が長期にわたって行われていない他のヨーロッパ諸国でもよく見られ、英語では itinerant kingship、traveling kingdom、イタリア語では corte itineranteなどと呼ばれている。
神聖ローマ帝国は、現代的な意味での首都を持たず、場所を変えながら統治していた。これらの場所は、主に王家の領地に建てられた宮殿や、修道院、司教の町などであった。宮廷がどのような経路で旅をしたのかは、文書や物語の位置情報から正確にはわかっていないことが多い。このような旅路を「Itinerare」と呼ぶ。宮殿は、交通の便が良く、肥沃な地域に設置されることが多く、その周囲には王宮があり、王室の領地の中心となっていたことを考慮しなければならない。王宮は帝国内に点在していた。王室の構成は、どの地域を旅するかによって変わり、どの貴族がその旅で従者とともに宮廷に加わったり離れたりした。
王宮の移動速度は、通常、1日 20~30キロ程度であった。コンラート 3世の場合、1146年にフランクフルトからヴァインハイムまでの旅で、最高 66キロの記録がある。
巡回王権は、帝国の全体像を把握するのに役立つと同時に、地方の領主達をコントロールすることで、帝国をまとめる役割も果たしていた。当時、支配は個人的な関係を通じて行われ、そのためには支配される側との接触を自ら求める必要があった。一方で、宮廷の経済的なニーズを満たすためには、旅をするしかなかった。というのも、当時は輸送ルートが不十分だったため、より多くの人々を同じ場所に恒常的に供給することはまだ不可能だったからだ。食材を王宮に送るのではなく、結果的に王宮が食材のあるところに移動するわけである。」・・・とあります。
この最後の部分は「Gastungspflicht」(日本語の適切な訳はありあせんが「接待義務」というところでしょうか?(笑))農民たちに多大な負担を強いるものであり、歓迎されていなかったようで「Gott segne den König, aber möge er nie wieder kommen(王様に神の祝福を!でも二度と来ないでくれ)」などと言われていたそうです。
百人一首に収録されている、貞信公の「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ(小倉山の峰の紅葉よ。お前に人間の情がわかる心があるなら、もう一度天皇がおいでになる(行幸される)まで、散らずに待っていてくれないか)」のように天皇の再訪を期待して待つ・・・なんて世界とは対極のようですね(笑)