- 2021-7-26
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マクデブルクはニックネームのようなものとして「Ottostadt」と称しています。例の「マクデブルクの半球」で知られる真空実験を行ったオットー・フォン・ギューリケ(Otto von Guericke)にゆかりがあることもいくばくかは含まれていると思いますが、メインは勿論、神聖ローマ帝国初代皇帝(と見做されている)オットー1世あるいはオットー大帝(Otto I. der Große)にゆかりのある町ということです。今回はオットー大帝の周辺を少し調べてみます。
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↑↑ これはドイツの第二テレビ放送(ZDF:Zweite Deutsche Fernsehen)による「ドイツ人(Die Deutschen)」という特集の第二回目「オットーと帝国(Otto und das Reich)」のトップ画像です。ちなみにこの特集は全編20回が無償で公開されていますので、少しドイツ語を勉強された方がヒアリングの練習を兼ねてドイツの歴史を俯瞰するのにお勧めです。
Wikipediaの解説は独語・日本語とも非常に長いので、独語版の冒頭の部分だけを訳しておきます。
Gemeinfrei, Link
「オットー1世(* 912年11月23日 † 973年5月7日 生没ともメムレーベン Memleben)は、リウドルフィング家の王朝の出身で、ザクセン公であり、936年からは東フランク帝国(regnum francorum orientalium)の王、951年からはイタリア王、962年からはローマ・ドイツ帝国の皇帝であった。
長い治世の前半、オットーは王権の不可分性と、役職の配分を決定する権限を強化した。その際、彼は既存の貴族の支配構造に深く介入した。最も深刻な反乱は、王室メンバー自身によるものだった。オットーの弟ハインリヒと、オットーの息子リウドルフが王位継承権を主張した。オットーはそれぞれの反乱で勝利を収めた。
955年のレヒフェルトの戦いでハンガリー人に勝利したことで、ハンガリー人の侵入を阻止しただけでなく、王たちに対する帝国の優位を決定づけた。また、同年にスラブ人の討伐に成功したこともあり、キリスト教の救世主としてのイメージが定着した。その結果、オットー・ルネッサンス(Ottonische Renaissance)と呼ばれる文化的繁栄の時代が始まった。
961年にはイタリア王国を征服し、北、東、そして南イタリアまで帝国を拡大し、ビザンティウムと対立した。しかし、カール大帝の皇帝像を参考にして、962年にローマで教皇ヨハネ 12世から戴冠して皇帝に即位し、ビザンチン皇帝と和解して息子のオットー 2世をビザンチン皇帝の姪であるテオファヌと結婚させることに成功した。
968年、彼はマグクデブルクに大司教座を設立したが、この街は彼の没後、歴史に大きな役割を果たすことになる。オットーにとって、大司教職はスラブ人のキリスト教化のための決定的な前提条件であった。「大帝 der Große」という呼称は、少なくとも中世の歴史家オットー・フォン・フライジング以来、定着した名前の属性と考えられている。コーヴェイのウィドゥキンドは、すでに彼を「totius orbis caput」(「全世界の頭」)と呼んでいた。」
・・・と、ザックリとしたストーリーはこんな感じですが、このあたりの物語は読めば読むほど、現代のファミリーの人間関係とは感覚が違うな~という感じです。少なくとも私のような小市民感覚とは違いますが、大富豪や政治家など、権力を持っている・目指している人やファミリーの視点からは「なんだ、同じじゃないか!人間って変わらないもんだな~」なのかもしれません(笑)
(画像は「オットーと帝国(Otto und das Reich)」からの借用です。下も同様)
オットー1世の業績の第一はマジャール人(ハンガリー)の侵略に対抗してアウグスブルク近郊の「レヒフェルトの戦い」で勝利を収めるにあたり、同じ(ような)言葉を話すザクセン、フランケン、シュワーベン、バイエルンの部族を束ね、その上に立って戦いを主導することを通じて、連帯感を醸成したことがあろうかと思います。これが「ドイツ人」という概念・連帯感のベースとなっていくのです。
しかしながら、更に大きな業績は彼の野望「カール大帝の再来となること」を成し遂げたことでしょう。962年にローマで教皇ヨハネ 12世から戴冠して皇帝に即位し、更にビザンチン皇帝と和解して息子のオットー 2世をビザンチン皇帝(東ローマ帝国)の姪であるテオファヌと結婚させることに成功します。ここで、476年に滅亡した西ローマ帝国が再興されたことになり、これを以て「神聖ローマ帝国」の発祥とされるわけです。
「部族の長」的なポジションの王(König)とは異なり、ここでの皇帝(Kaiser)は「カトリックという宗教と、その最高位のローマ教皇の守護」というポジションです。ドイツ語の文献を読むと geistlichと weltlichという概念が出てきて、和訳では「精神的・宗教的」と「世俗的」と訳されています。ローマ教皇は「カトリックの精神的・宗教的」な世界の頂点であり、それを布教していくのは大司教・司教の仕事ですが、その守護役となって異教徒を戦争で屈服させたり、領土を拡大してそこを政治的に治めたりする「泥臭い役割」を分担するのが皇帝ということです。
従って、ローマ教皇に忠誠を誓い、教皇から冠を戴き(戴冠する)皇帝となるということは「公式にローマ教皇から権威(の根拠)を授けられる」ということになります。
「ドイツ連邦鉄道(DB)の特急(ICE)が停まらない唯一の州都」などと自虐的ギャグもある、今日では今一つパッとしない印象のマクデブルクですが、「Ottostadt」という呼称には、過去の栄光を今一度思い起こして町起こしをという切なる思いがも込められているように思うのです。