- 2023-2-5
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駅を西側に出てバウハウスのデッサウ校舎に向かって歩きます。初めて来たのはまだ東独が存在していた 1991年で、それ以来少なくとも4回は来ていますが、少しずつリノベーションが進んでいます。今回アップする写真は 2018年 3月 24日に訪問した時のものです。
バウハウスに関しては、今更私が解説するまでもなく、数多くの解説がネットにも書籍にもありますので、最低限の情報を Wikipediaから引用しておきます。
世界で初めて「モダン」なデザインの枠組みを確立した美術学校である。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでの14年間であるが、当時他に類を見ない先進的な活動は、現代美術に大きな影響を与えた(「モダニズム建築」「20世紀美術」の項を参照)。19世紀までの装飾性に富んだ歴史主義建築などとは異なり、バウハウスの芸術家が生み出したデザインは極めて合理的かつシンプルなデザインであるため、機械的な大量生産に適していた。そして、産業革命により20世紀初頭に巻き起こった、製品の合理性を追求するモダニズムの流れの中で、バウハウスのデザイン手法も派生を繰り返しながら爆発的な拡がりを見せて行った。現代までに、コンクリート製の建築物や、IKEAなどの普及品の家具のデザイン、ユーザーインタフェースのグリッドレイアウトやフラットデザインなど、多数の製品にバウハウスと同様の手法が使われて来ている。
その他、ネット社会において、SNS等で多数投稿されている写真の自撮り・コラージュなども、バウハウスが起源となっている。テクノロジーの活用はメディアアートにも影響を与え、現代のデジタルコンテンツの制作手法の基礎にもなっている。レゴの元祖と言えるブロック玩具も存在する。従って、バウハウスが発明した合理性を追求したデザインは、現代人が意識する必要がない程に日常化したと言える。
バウハウスの歴史はわずかな期間であるが、この間に運営方法は大きく変わった。
デッサウ移転
ヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転し、「市立バウハウス・デッサウ」となった。デッサウの校舎はグロピウスの設計によるもので、モダニズム建築の代表作として各国に紹介された。現代の感覚で見ると特筆すべき点は無いが、当時としては最先端の建築デザインであった。グロピウスは1928年に校長を退き、グロピウスの後継者にはハンネス・マイヤーが指名された。
ヴァイマルがドイツ古典主義の影響が濃い歴史ある文化都市であったのに対して、当時のデッサウは、ユンカース(航空機メーカー)の企業城下町の新興工業都市であったことから、移転先に選ばれた[1]。
ムテジウスの系譜に連なるマイヤーは唯物論の立場から「バウエン」(Bauen, 建築、構築)を唱え、全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させた。これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」 (Gestaltung) とされた。マイヤーの手腕でバウハウスは初めて黒字を生み、国際的な評価が高まり、同校のデザイン活動は最高潮に達していた。1929年6月にマイヤーの後援でバウハウス内に「ドイツ共産党細胞」という同好会が結成された。マイヤーが公然たる共産主義者であったこともあり、さらにバウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになる。
1930年にマイヤーは解任され、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが校長に就任した。
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