誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(56):★デッサウ Dessau -4-

★デッサウ Dessau -3- からの続きです

駅を西側に出てバウハウスのデッサウ校舎に向かって歩きます。初めて来たのはまだ東独が存在していた 1991年で、それ以来少なくとも4回は来ていますが、少しずつリノベーションが進んでいます。今回アップする写真は 2018年 3月 24日に訪問した時のものです。

バウハウスに関しては、今更私が解説するまでもなく、数多くの解説がネットにも書籍にもありますので、最低限の情報を Wikipediaから引用しておきます。

世界で初めて「モダン」なデザインの枠組みを確立した美術学校である。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでの14年間であるが、当時他に類を見ない先進的な活動は、現代美術に大きな影響を与えた(「モダニズム建築」「20世紀美術」の項を参照)。19世紀までの装飾性に富んだ歴史主義建築などとは異なり、バウハウスの芸術家が生み出したデザインは極めて合理的かつシンプルなデザインであるため、機械的な大量生産に適していた。そして、産業革命により20世紀初頭に巻き起こった、製品の合理性を追求するモダニズムの流れの中で、バウハウスのデザイン手法も派生を繰り返しながら爆発的な拡がりを見せて行った。現代までに、コンクリート製の建築物や、IKEAなどの普及品の家具のデザイン、ユーザーインタフェースのグリッドレイアウトやフラットデザインなど、多数の製品にバウハウスと同様の手法が使われて来ている。

その他、ネット社会において、SNS等で多数投稿されている写真自撮りコラージュなども、バウハウスが起源となっている。テクノロジーの活用はメディアアートにも影響を与え、現代のデジタルコンテンツの制作手法の基礎にもなっている。レゴの元祖と言えるブロック玩具も存在する。従って、バウハウスが発明した合理性を追求したデザインは、現代人が意識する必要がない程に日常化したと言える。

バウハウスの歴史はわずかな期間であるが、この間に運営方法は大きく変わった。

✙✙ 前史&ヴァイマルでの設立:長くなるので折りたたんでいます。展開するにはこちらをクリック下さい

ヴァイマル大公ヴィルヘルム・エルンストは、ベルギーの建築家でアール・ヌーヴォーに造詣の深いアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデをヴァイマルに招聘した。1902年、ヴェルデは私設の「工芸ゼミナール」を設立し、1908年に「大公立美術工芸学校」へ発展した。1911年には、ヴェルデ設計による工芸学校の校舎が建てられた。

ヴァン・デ・ヴェルデはケルンでのドイツ工作連盟展ドイツ語版英語版(1914年)で、イギリスアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受け、規格化を重視したドイツ工作連盟ヘルマン・ムテジウスと衝突して(ドイツ語Typenstreit規格化論争1915年にドイツを去らざるを得なくなり、工芸学校をヴァルター・グロピウスに託した。

ヴァイマルでの設立

第一次世界大戦後にドイツ革命1918年11月3日 – 1919年8月11日)が勃発。ドイツ帝国が崩壊して大公の統治が終わり、ヴァイマル共和国が成立した。1919年、工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ヴァイマル」設立(ヴェルデ設計の旧工芸学校の校舎を使用)。初代校長にグロピウスが就任し、同年にバウハウス創立宣言が出された(ちなみに宣言の表紙はリオネル・ファイニンガーの「社会主義の大聖堂」)。宣言でグロピウスは「芸術家と職人の間に本質の差はない。階級を分断する思い上がりをなくし、職人の新しい集団を作ろう!」と呼び掛けた[1]

予備課程を担当していたヨハネス・イッテン の方針から、初期の教育内容は、合理主義的(機能主義的)なものと表現主義的(神秘主義精神主義的、芸術的、手工業的)なものとを混合していた。

1922年にソ連の高等芸術学校ヴフテマス1920年 – 1930年)から招聘したワシリー・カンディンスキーロシア・アヴァンギャルド構成主義的な造形教育を開始した後、グロピウスはオランダのデ・ステイルピエト・モンドリアンによる新造形主義や、テオ・ファン・ドゥースブルフによる要素主義)の影響を受け、より合理主義的・機能主義的な考え方をとるようになった。やがて、グロピウスとヨハネス・イッテンとの間に対立が生じ、1923年にイッテンがバウハウスを去り、後継者にはハンガリー亡命したモホリ=ナジ・ラースローが就任、予備課程を担当した。その結果、合理主義・機能主義が、バウハウスの中心的な教育傾向となっていった。これは工業デザインや大量生産に合致するものであった。

デッサウ移転

ヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年デッサウに移転し、「市立バウハウス・デッサウ」となった。デッサウの校舎はグロピウスの設計によるもので、モダニズム建築の代表作として各国に紹介された。現代の感覚で見ると特筆すべき点は無いが、当時としては最先端の建築デザインであった。グロピウスは1928年に校長を退き、グロピウスの後継者にはハンネス・マイヤーが指名された。

ヴァイマルがドイツ古典主義の影響が濃い歴史ある文化都市であったのに対して、当時のデッサウは、ユンカース(航空機メーカー)の企業城下町の新興工業都市であったことから、移転先に選ばれた[1]

ムテジウスの系譜に連なるマイヤーは唯物論の立場から「バウエン」(Bauen, 建築、構築)を唱え、全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させた。これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」 (Gestaltung) とされた。マイヤーの手腕でバウハウスは初めて黒字を生み、国際的な評価が高まり、同校のデザイン活動は最高潮に達していた。1929年6月にマイヤーの後援でバウハウス内に「ドイツ共産党細胞」という同好会が結成された。マイヤーが公然たる共産主義者であったこともあり、さらにバウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになる。

1930年にマイヤーは解任され、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが校長に就任した。

✙✙ ベルリン移転・閉校:長くなるので折りたたんでいます。展開するにはこちらをクリック下さい

ベルリン移転

1932年にデッサウ校は閉鎖し、首都ベルリンへ移転して私立学校になった。ミース・ファン・デル・ローエの方針はマイヤーの「バウエン」を継承しつつも、政治色を払拭するものだった。

1933年にはナチスにより閉校される前にミース・ファン・デル・ローエにより解散された。(出典、Magdalena Droste”Bauhaus”, Taschen)

ミース・ファン・デル・ローエは米国に亡命。モホリ=ナジ・ラースローも国外に移動しているなど、国外に活動の場は移動されることとなった。

バウハウス関係者とナチスの関係は一様ではなく、強制収容所の設計・建設に協力した者や、強制収容所で獄死した者もいた[1]

↓↓ サムネイルはクリックするとスライドショーになります。

★デッサウ Dessau -5- に続きます

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