- 2022-9-4
- ブログ
★★★ザールフェルト Saalfeld/Saale -10- からの続きです
前項でご紹介した巨大なクリニックの建物を設計した Hanns Hoppという建築家の「戦後の作品」を紹介します。旧東独の政治体制化、ソ連・スターリン時代の空気を感じさせる新古典主義様式の巨大な建物などを遺しています
vor 1950: Erich-Weinert-Siedlung, Beatrice-Zweig-Straße in Berlin-Niederschönhausen
1951–1962: Deutsche Hochschule für Körperkultur in Leipzig
![](https://ohno-inkjet.com/wp/wp-content/uploads/2022/09/DHfK.jpg)
ADN-ZB Kluge 13.10.1989-kl Leipzig: DHfK-Außenansicht-Blick auf das 16, 5 Hektar große Gelände der Deutschen Hochschule für Körperkultur in Leipzig. Im Hintergrund der Glockenturm des Sportforums. Den künftigen Diplomsportleherin stehen hier in ihrer vierjährigen Studentenzeit elf Sporthallen, drei Hörsäle mit über 1000 Platzen sowie zahlreiche Fachkabinette und Labors zur Verfügung. Seit Gründung der DHfK am 20.10.1950 würden mehr als 15.000 Absolventen gezählt.
ドイツ体育大学(DHfK)は、ライプツィヒにあるドイツのスポーツ大学である。1950年初めにドイツ民主共和国で設立され、1991年1月1日以降、統一ドイツで解散した。現在では、ライプチヒ大学スポーツ科学部が、大幅に縮小された後継機関として機能している。
その中で、DHfKは大学院のスポーツ教師を養成し、コーチやスポーツ関係者を組織的に登用し、若い才能の研究、種目のさらなる発展を研究し、当時のスポーツ科学におけるセンセーショナルな革新と評価されたのである。ドイツ民主共和国の国家ドーピングプログラムにおいて、大学そのものは管理的な業務を行っていなかったが、DHfKのさまざまな研究部門が合併してできた体育・スポーツ研究所(FKS)と人事的に重なり、ガイドラインの作成やパフォーマンスを高めるための薬物の使用に関する研究に関わっていたことは明らかであった。その露出した位置から、ライプツィヒDHfKは、読み方によっては「ドイツ民主共和国のスポーツの奇跡の核」あるいは「国が運営する強制ドーピングシステムの本部」と呼ばれた。(独語Wipipedia)
1951–1955: Kulturhaus „Johannes R. Becher“ des VEB Maxhütte in Unterwellenborn
1951–1955: Blöcke E und G der Stalinallee in Berlin-Friedrichshain
旧東ベルリンのスターリンアレー(現在のカール・マルクスアレー)を歩いた時の違和感は、貧弱な語彙しか持ち合わせていない私にはとても表現し尽くせません。シュラウスベルガープラッツからフランクフルタートーアまで・・・ベルリンに行かれる機会があれば是非その一部でもいいので歩いてみて体感ください。上の動画からは雰囲気がよく伝わってきます。戦後廃墟になったベルリンの復興時、ソ連占領下にあった東ベルリンの目抜き通りを、当時のソ連の国力を見せつけるかのように計画された巨大な住宅た店舗、映画館などのコンプレックス・・・Hanns Hoppはこの中の Block Eと Gを担当しました。
1952–1957: TBC-Heilstätte in Bad Berka
1952–1961: Agricola-Krankenhaus in Saalfeld
いかがでしょうか?前項の女子職業学校やパークホテルなどはバウハウスの影響を感じますが、東独時代のはやはりソ連・スターリンが好む様式の影響を色濃く受けてますね。私が、サールフェルトに来たのは、その一つであるこの巨大なクリニックを見たかったからなのです。
★★★ザールフェルト Saalfeld/Saale -11- に続きます