誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(62):★★★グーベン Guben -7-

★★★グーベン Guben -6- からの続きです

さて、この日はあと2か所を訪問するので、そろそろ駅に戻ります。国境の橋まで戻りました。

ドイツ側に戻ります。

よく見ると橋の向こう側の左手の建物は、1990年初めごろに撮った写真に写っているものと同じものです。広い壁に、右の写真には「HO」という東独の国営小売店チェーンの広告が描かれています。速度制限規則を告知する看板には「D」とあるので東西統一後の 1990.10.3以降の写真ですが「HO」はまだ残っていた過渡期だったということですね。


以上、かつては一つの町が戦後にナイセ川が国境となったことで分割されてしまったドイツ側のグーベン(Guben)とポーランド側のグビン(Gubin)の街歩き記でした。ここまでのご案内でお分かりのように、戦前の町の中心部はナイセ川の東側、今のポーランド側だったことが明らかです。ポーランド側のグビン(Gubin)のポーランド語の Wikipediaにリンクを張っておきます。ドイツの視点・記述とは異なる記述が興味深です。

また殆ど知られてはいませんが、戦前はこの町で製造された帽子は世界的なヒット商品だったようです。下記は独語 Wikipediaの記述から:

「19世紀には、16世紀からの職人的な織物産業が、強力な織物製造業へと発展し、英国人の織物機械・毛織物製造業者であるウィリアム・コックリル・ジュニアが大きな役割を果たした。プロイセンとの同盟関係、ドイツ関税同盟の結成、高価な英国産の硬質炭を地元産の褐炭に切り替えたことなどが追い風となり、町は急速な発展を遂げた。1866年には布地工場が 17軒に増え、1870年には約 30軒になったが、大半はその後すぐに廃業せざるを得なかった。その後、鉄鋳物工場、機械工学、カーペット工場、メリヤス工場、靴工場、製油所、そしてグロース・ガストローゼにあったカール・レーマンの Niederlausitzer Mühlenwerkeのような大企業が台頭した。

1822年、カール・ゴットロブ・ヴィルケが最初の帽子職人となる。1859年、息子のフリードリッヒとテオドールが工房を引き継ぐ。フリードリッヒは1869年に帽子の製造を開始し、耐候性に優れた毛織フェルト帽子の発明によって世界的にブレイクした。第二次世界大戦前、グーベンは “Guben hats – world-famous for their quality “という広告スローガンで知られていた。1887年、フリードリッヒ・ヴィルケは、13歳で腸チフスで亡くなった娘を偲んで、ナエミ・ヴィルケ・シュティフト小児病院を設立した。現在、この病院は、独立福音ルーテル教会 が運営する地元の病院となっている。1903年、同じく若くして亡くなった息子カール・エミール・フリードリッヒを記念して、ザウアー・オルガンのあるアールヌーボーの教会をベルリン通りに寄贈。」

Kurt Mühlhardt: Mein Hut der ist ein Wilke, Werbung der Hutfabrik C. G. Wilke in Guben, c. 1935

もう一つ、ナイセ川の東側の教会(廃墟)に北に位置する公園には、あの世界的に有名な建築家ミース・ファン・デル・ローエLudwig Mies van der Rohe)が繊維製品製造業者 Erich und Elisabeth Wolfの依頼によって切開した「Villa Wolf」がありましたが、残念ながら第二次大戦で破壊され、再建はされなかったようです・・・残念・・・

★★★グーベン Guben -7- の章を終ります

シリーズ:誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte に戻ります。

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