誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(29):★★ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -5-

ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -4- からの続きです

↓↓ 天気がいい時にマルクト広場の主要アイテムを写真に収めようとするとこうなりますね。(独語Wikipediaからの画像引用です)

Marktplatz Halle 2010.jpgCC BY-SA 3.0, Link

↑↑ 流石はプロが撮ると素晴らしいですね。↓↓ 私が iPhoneで撮ると精々こんなもんです(笑)教会の2本の塔に当たっている光線の具合や人影がまばらなことからすると、プロの方は早朝に撮ったものと思われます。私の方は 2018/04/21 13:07というタイムスタンプがあり、広場ではイベントが開催されています。

同じような写真で恐縮ですが、町を歩く度に中心部のここは避けては通れず、通るたびに写真を撮ってしまうので、結果として沢山の画像が残っています。↓↓ クリックするとスライドショーになります。

(独語Wikipediaからの引用ですが)「Marktkirche Unser Lieben Frauen (マリエン教会とも呼ばれる)は、ハレ(ザーレ州)の街にある中世の教会の中で最も新しく、ドイツ中央部のルネッサンス期の後期ゴシック建築の中でも最も重要なものの一つです。その 4つの塔は、赤の塔とともに、5つの塔の街と呼ばれるハレの街のランドマークとなっています。2004年には教会創立 450周年を迎えました。」

「マルクト教会は、1529年から1554年にかけて、数世紀前に建てられた聖ゲルトルーデン教会と聖マリエン教会をもとに建てられました。西側にある聖ゲルトルーデン教会は11世紀に建てられたもので、現在のハルマルクト周辺のハレの谷の塩業労働者の教会でした。12世紀に建てられた東側の聖マリエン教会は、鉱山町の商人や職人の教区教会であり、マルクト広場周辺の一段高い通りにありました。」・・・とあり、2つの別の教会が描かれていた 1500年頃の絵にあるように、元は別の教会だったものが合体したものということが分かります。

「ハレ市の君主であるブランデンブルク枢機卿アルブレヒト、マクデブルク大司教、マインツ選帝侯は、居住地であるハレ市の中心地に、代表的な教会を必要としていた。枢機卿と公会議のカトリック信者たちは、宗教改革の影響が強まっていくのを押しとどめようとしていた。というのも、新しい建物では、マリアの後援(Marienpatroziniums:Schutzherrschaft eines Heiligen über eine Kirche)が単独で継続されるため、はるかに素晴らしいミサや礼拝を行うことができるからである。1529年 5月 17日の聖霊降臨節(Pfingsten)の月曜日には、彼の提案により、大司教の評議員、市の奉行、教会の司祭たちが市場に集まり、徹底的に協議した結果、2組の塔を除いて 2つの教区教会を取り壊すことを決定した。同じ場所にある 4つの塔は、1つの身廊で結ばれることになった。2つの市場教区教会の合併に伴い、教会を囲む 2つの墓地の閉鎖も同時に決定された。町の正面に位置する Marienbergが新しい埋葬地として選ばれ、そこに町の墓地が作られた。現在でも見学することができ、ルネッサンス期の傑作と言われている。」・・・という経緯のようです。

「マリエンビブリオテークは、1552年に聖マリエン教会(現在のMarktkirche Unser Lieben Frauen)の主任司祭であったセバスチャン・ボエティウスによって設立されました。ボエティウスは、ライプツィヒの見本市で、寄付金をもとに、そのための本を買った。寄贈や購入により、蔵書はあっという間に増えていきました。1696年にハレ大学図書館が設立されるまで、マリエンビブリオテークは市内で唯一の公共の書籍コレクションでしたが、それまでは設立されたばかりの大学の学生や教授も利用していました。その後も、少しずつしか増えていない大学図書館では、文学の需要をまかなうことができませんでした。1697年からの選挙による使用権に支えられ、教授たちはより充実したマリエンビブリオテークを好むようになりました。」

「赤の塔」はハレ(ザーレ)の街のランドマークのひとつです。これは、マルクト教会の 4つの塔と一緒に形成されています。ハレは、こ の2つの建物の特徴的なシルエットから、しばしば「5つの塔の街」と呼ばれています。1945年4月16日、砲撃により焼失し、特徴的な尖塔を失いましたが塔の再建以外は復元されました。

1749/50年、記録家の Johann Christoph von Dreyhauptは、もともと赤く輝いていた銅の屋根にちなんで塔の名前が付けられ、後の緑の色にもかかわらずこの呼び名が維持されていることを示唆しました。むしろ、より可能性の高い理由は、当時彼の足元にあった重罪刑事裁判(血の裁判)です。 これを表現したのは、1547年から 1718年の間に血の正義の象徴として塔に直接立っていたローランドの姿でした。 場合によっては、その名前がヨハネス・ローデ(Johannes Rode)という名前の参加している建築家または建築家を参照しているという論文が表されているため、「Rode-Thurm」という用語が一般的に使用されていました。 ハレの貴族の家族の一員として、ロードは創設者としても登場した可能性があります。

↓↓ ハレの項の冒頭にもアップしましたが、Galleria Kaufhof上階のレストランテラスからの眺め、お勧めです!

ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -6- に続きます

関連記事

ページ上部へ戻る