- 2021-3-10
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★★シュマルカルデン Schmalkalden -2- からの続きです
Bahnhof Strasseを左折して Haindorfsgasseから旧市街に入っていきます。私が訪問した 2017年は、宗教改革 500周年ということで、町ではそれに関する様々なイベントが開催されていました。この町は、ルターを支持したプロテスタント諸侯と都市国家が同盟を結んだ地として知られていますが、それら諸侯・都市の紋章が飾られていました。
歩行者天国の標識と石畳・・・期待の持てそうな Altstadtへの入り口です
私が訪問した 2017年は宗教改革 500年行事として、エヴァンゲリッシュ(プロテスタント)系の教会や、宗教改革に関係した都市では様々なイベントが開催されていました。もちろん今日ではカトリックとエヴァンゲリッシュが宗教戦争をする時代ではないので、様々なイベントは観光客誘致策としても大きく貢献した、するように組まれていたものと想像します。シュマルカルデンでは、1531年にシュマルカルデン同盟に加わった諸侯国・諸都市の紋章が掲げられていました。ちなみに・・・私の職業病なんですが・・・上の写真の「シュマルカルデン同盟」のバナーも、下の写真にある諸国・諸都市の紋章も「インクジェットプリント」です(笑)
2017年は、ルターがヴィッテンベルクのシュロスキルヘ(城内教会)の扉に95箇条の論題を打ち付けた 1517年から 500年ということで、周年記念行事は 1年限り・・・かと思っていましたが、なんと 10年間続くのだそうです!まあ、これからしても観光客誘致的側面は明らかですが、バルセロナもガウディで 100年食ってるし、阪神タイガースも 1985年以来、10年ごとに周年記念本で食ってるし・・・まあいいか(笑)
↑ 薄紫はシュマルカルデン同盟当初メンバー、紫はその後参加した地域
← 1530年当時(アウグスブルクの信仰告白当時)の宗教分布:黄色がカトリック、紺色がプロテスタント
当時の状況に関する私なりの解釈は、ザクセンの歴史という視点で、ヴィッテンベルクの項にちょっと書きました。シュマルカルデンという町を題材に、そこの名前が付いたシュマルカルデン同盟とシュマルカルデン戦争あたりを交えて、当時の状況をどう「簡潔に」「わかり易く」記述するかというのは、ちょっと悩ましいものがあります。
誤解も承知で、すごくざっくり言えば・・・ドイツ語で「geistlich(精神的な)」と「weltlich(世俗的な・・・と訳されることが多い)」と役割を分担してキリスト教信仰を広めて、またそれを統治のツールとして活用してきた「教皇と皇帝」・・・痴話喧嘩的な対立はありながら、いずれにしてもそれがセットで「カトリック一党支配状態」だったのが、世界のどこでも「あるある」の長期政権の腐敗みたいな状況を生み出し、免罪符販売でカネ集めまで始めた。これに異を唱えて「信仰の基本に戻る」というようなことを唱えたのがルター。(ただ、こういう状況に異を唱えたのはルターの専売特許ではなく、ボヘミアではヤン・フス、ほかにもカルヴァンやツヴィングリなどもいた。)
当時はカトリック信仰と、諸般の利権がセットになっていたと想像されるんだけど、地域の領主達は次第にそれに反発し、自らの権利を拡大しようと、あの手この手で権力の代表としての皇帝に対抗していく。ちょっと踏み込みすぎかもしれないけれど、そのイデオロギーとして、カトリックの惨状に異を唱えたルターの思想は「乗り易かった」のではないか?仲間を増やし、結びつけるバインダーとしての共通思想として機能したのではないか?・・・まだまだ私論・試論の域です(笑)
当時の勢力分布は上の2つの地図のような感じで、皇帝視点では革命派・反乱勢力としてのプロテスタント諸侯・諸都市の面積はまだまだそう大きくはありません。逆に、だからこそ同盟を組んで纏まった勢力となる必要があったということでしょう。
独語 Wikipediaの Schmalkaldischer Bund(シュマルカルデン同盟)の Struktur des Bundes(同盟の構造)という部分に下記の記述があります。
「シュマルカルデン同盟は、プロテスタントの諸侯たちのゆるやかな支援同盟として1531年に設立されました。創設文書では、同盟国は、彼らの宗教のために攻撃された場合、お互いを支援することを約束しました。
1535年から同盟の性格が変わりました。攻撃が発生した場合、10,000人の兵士と2,000人の騎手からなる軍隊を編成し、月に70,000グルデンの資金を提供することが決定されました。ヘッセン方伯フィリップ1世とザクセンのヨハン・フリードリヒ選帝侯が同盟の盟主と軍の指揮官に任命され、6か月ごとに交代しました。長い間、この共有されたリーダーシップは、同盟が純粋なヘッセンまたは純粋なザクセン選帝侯の問題のために道具化されることを妨げていました。同盟の主要メンバーは、船長が任務を遂行するのを支援するために戦時評議会を任命しました。」
要は、シュマルカルデン同盟って、皇帝に対するプロテスタント諸侯の「集団的自衛権」軍事同盟だったということの様ですね。
このあたり、改めて深掘りしたいと思っています。自分の備忘録も兼ねて、関係ありそうなキーワードを挙げておきます。日本語は読みやすいですが、かなり端折っているので、できれば独語 Wikipediaを Google翻訳などを駆使して読み込んでいくのがいいと思います。
★★シュマルカルデン Schmalkalden -4- に続きます