誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(9):★★ヴィッテンベルク Lutherstadt Wittenberg -その3-

翌朝は Schlosskircheに行ってみます。とは言ってもホテルを出ると道路を挟んで目の前なんですが(笑)。あの「95ヶ条の論題を打ち付けた」とされる扉も部屋の窓から見ることができる・・・そんな場所です。


1517年にルターが95か条の論題を城教会の門に貼りだしたことで宗教改革が始まった、とされている。
Ferdinand Pauwels – flickr, パブリック・ドメイン, リンクによる

Schlosskircheというからには Schlossに付属した教会と思われますが、あまり壮麗な Schlossらしいものが見当たりません。歴史的なものという感じがするのは塔くらいです。泊まったホテルのサイトに航空写真がありますが、これを見ても塔の右手に見える Schlossであったと思しき部分は、今風のホテルかオフィスビルの様にさえ見えます。Schloss Wittenbergに関する記述(独語)はこちら

Wittenberg Schloss P8241753 SHoppe2018.jpg
Von Stephan HoppeEigenes Werk, CC0, Link

独語Wikiの冒頭の記述ですが、何故こういう「近代的な建築」になっているのかが簡単に触れられています。ここでまたそれを翻訳アプリ DeepLと Google翻訳にかけて比較してみました。

[Wikipedia原文] Schloss Wittenberg ist die ehemalige Residenz der sächsischen Kurfürsten. Es wurde ab 1489 vollständig neu errichtet und war bei seiner Fertigstellung 1525 eines der prächtigsten befestigten Schlösser der frühen Renaissance in Deutschland. Nach Bränden 1760 und 1814 und dem Bedeutungsverlust der Stadt Wittenberg durch den Schmalkaldischen Krieg und den Wiener Kongress ist vom einstigen Glanz des Bauwerks nur wenig geblieben.

[DeepL翻訳] ヴィッテンベルク城は、かつてのサクソン選帝侯の居城である。1489年から全面的に再建され、1525年に完成した時にはドイツの初期ルネッサンス期の城郭の中でも最も壮麗なものの一つとなりました。1760年と1814年の火災、シュマルカルド戦争とウィーン会議によってヴィッテンベルクの町の重要性が失われた後、建物にはかつての栄光がほとんど残っていません。

[Google翻訳] ヴィッテンベルク城は、サクソンの有権者のかつての住居でした。それは1489年から完全に再建され、1525年に完成したドイツの初期ルネサンスの最も壮大な要塞城の1つでした。 1760年と1814年の火事と、シュマルカルディ戦争とウィーン議会によるヴィッテンベルク市の重要性の喪失の後、建物のかつての素晴らしさはほとんど残っていません。

いずれもパーフェクトではなく、精度も一長一短にしても、意味は十分に通じます。DeepLが「選帝侯の居城」と訳しているのに対し、Googleは「有権者の住居」としているのが笑えますが、ドイツ史用語の日本語での慣例を少し知っていれば十分対応できますね。

キーワードを追えば「1525年には初期ルネサンスの壮大な城郭だった」、「1760年と 1814年の火災」、「シュマルカルデン戦争」と「ウィーン会議」によるヴィッテンベルクのステイタスの低下・・・そんな感じです。そのあたりを突っ込んでみることにしますが、まずは Schlosskircheに入ってみることにします。

先のキーワードが含まれる Wikipediaの記事をいくつか挙げておきます。

サクソン人(日本語)Sachsen(Volk)(独語)
ザクセン君主一覧(日本語)Liste der Kurfürsten, Herzöge und Könige von Sachsen(独語)
ザクセン戦争(日本語)Sachsenkriege Karls des Großen(独語)
ザクセン公国(日本語)Stammesherzogtum Sachsen(独語)
ザクセン=ヴィッテンベルク(日本語)Sachsen-Wittenberg(独語)
ザクセン=ラウエンブルク(日本語)Herzogtum Sachsen-Lauenburg(独語)
ザクセン選帝侯領(日本語)Kurfürstentum Sachsen(Kursachsen)(独語)
フリードリヒ3世賢公 (ザクセン選帝侯)(日本語)Friedrich III.der Weise(独語)
Leipziger Teilung(ライプツィヒの分割:独語のみ)
エルネスティン家(日本語)Ernestiner(独語)
アルベルティン家(日本語)Albertiner(独語)
ヴェッティン家(日本語)Haus Wettin(独語)
シュマルカルデン同盟Schmalkaldischer Bund
シュマルカルデン戦争Schmalkaldischer Krieg
Wittenberger Kapitulation(ヴィッテンベルクの降伏:独語のみ)

ものすご~くラフに纏めてみると「そもそもザクセン人はゲルマンの部族の名前で、キリスト教化に最後まで抵抗してカール大帝のフランク王国に抵抗していたが、漸く妥協してカトリックに改宗した部族長ヴィドキントに『ザクセン公』というポジションを授けた」、「この後、幾つかの家系が『ザクセン公』のポジションを占めた」、「9世紀中ごろ、リウドルフィンガー家がザクセン人の諸部族をまとめてザクセン大公といわれるようになり、919年、そのハインリヒ1世は東フランク王(ドイツ王)となってザクセン朝を創始した。次のオットーは東方のマジャール人の侵攻をくい止め、キリスト教世界の防衛の功を立てたことから、962年に西ローマ皇帝の称号が与えられ、これが神聖ローマ帝国の始まりとされている。ザクセン朝は1024年に断絶した。(世界史の窓から)」。

「・・・(略)・・・その後、ヴェルフ家とアスカーニエン家が交互にザクセン公となり、一時はヴェルフ家のハインリヒ3世がバイエルン公も兼ねて帝国の有力諸侯にのし上がったが、1180年にフリードリヒ1世に帝国追放を受けて所領を没収され、アスカーニエン家のベルンハルト3世がザクセン公になった。1260年、アルブレヒト1世が亡くなると、ザクセンはザクセン=ヴィッテンベルクとザクセン=ラウエンブルクに分割された1356年、カール4世が金印勅書を発布し、ザクセン=ヴィッテンベルク公が選帝侯の資格を得た。以降はザクセン選帝侯と呼ばれる(Wikipedia)」ザクセン=ラウエンブルクの方は更に細かく分家が進み、纏まった大きな勢力では無くなっていきます。

1485年、ライプツィヒの分割(Leipziger Teilung)によって「ヴェッティン家領はザクセン選帝侯エルンストとその弟ザクセン公アルブレヒト3世の間で分割され、エルンストは選帝侯位とテューリンゲン西部の領地を獲得した。」

Saxony (Division of Leipzig) - DE.png
Von Saxony_(Division_of_Leipzig)_-_NL.png: Sir Iain
derivative work: Furfur – Diese Datei wurde von diesem Werk abgeleitet:  Saxony (Division of Leipzig) – NL.png:

ヴィッテンベルクの Schlossが「1489年から全面的に再建され、1525年に完成した時にはドイツの初期ルネッサンス期の城郭の中でも最も壮麗なものの一つ」というその時期は、フリードリヒ3世賢公の在位「1486年 – 1525年」にほぼ重なります。彼は、ライプツィヒの分割に関わったエルンストの息子で、選挙で選ばれる皇帝の候補にもなりますが、これを辞退し、カール5世を誕生させます(恩を売る形)。そういうこともあり、かなり力の有った選帝侯で、その居城の有ったヴィッテンベルクも栄えていたのでしょう。ルターを擁護してアイゼナッハのヴァルトブルク城に匿った人物としても知られます。

ん?ちょっと待てよ?神聖ローマ皇帝って、カトリックの総本山のローマ教皇と「精神世界(geistlich)と世俗世界(weltlich)」を分担して統治するってのがお約束・建前だったはず・・・従って神聖ローマ皇帝は自動的にカトリック。それを選ぶ選帝侯も当然カトリック。その選帝侯がカトリックに批判的なルターを擁護する?それってかなりのリスクなのでは?そんなことしてコンプライアンス違反にならないの?(笑)皇帝が舐められちゃってるってこと?

フリードリヒ3世賢公の跡を継いだ弟のヨハン不変公(Johann „der Beständige“)は兄の路線を引き継いでルターの進める宗教改革を支持したので「不変公」のあだ名があります。さらにその息子の選帝侯ヨハン・フリードリヒはエヴァンゲリッシュ(プロテスタント)系の諸侯と反皇帝の「シュマルカルデン同盟」の主導者になってしまう。そして遂に、カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世とプロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で「シュマルカルデン戦争」(1546年7月10日に勃発し1547年5月23日まで)が戦われるに至ります。

ひどいといえばひどい話ですが、カトリックのブルボン王朝フランスは、このエヴァンゲリッシュ諸侯のシュマルカルデン同盟を支援します。もうこうなるとカトリックvsエヴァンゲリッシュという宗教戦争ではなく、政治闘争ですね。大丈夫ですかね、ヨハン・フリードリヒ?(笑)

この戦いは結局、カール5世サイドの勝利に終わり、エルネスト系の選帝侯ヨハン・フリードリヒは選帝侯のポジションを失い、アルベルト系に選帝侯位と領地のかなりの部分を割譲することになります。ほらね、こういうことになるんだよ(笑)

Saxony after the Capitulation of Wittenberg (1547) - DE.png
Von Saxony_after_the_Capitulation_of_Wittenberg_(1547)_-_NL.png: Sir Iain
derivative work: Furfur – Diese Datei wurde von diesem Werk abgeleitet:  Saxony after the Capitulation of Wittenberg (1547) – NL.png:

前の地図と赤と黄色が逆転しているので混乱しますが、エルネスト系の黄色い領地は、ヴィッテンベルクなどを含めて赤のアルベルティン系に割譲されているのが分かります。この後、黄色で残ったテューリンゲン地方のエルネスト系の家系は更に細かい諸邦(テューリンゲン諸邦Thüringische Staaten)に分かれて力を失っていきます。

「ウィーン会議」はナポレオンに席巻されたヨーロッパの秩序を回復というのが趣旨だったわけだけど、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストは最終的にナポレオンについてライン同盟に加ったため、ウィーン会議ではヴィッテンベルクを含む北部をプロイセンに割譲することになり、そこは一つの県(Provinz)となってしまう・・・

大きくはこんな流れでしょうか。正直申してまだまだ腑に落ちないことも多いので、コロナ騒動で在宅している時間を最大限に活用して、このあたりをいろいろ調べて腑に落としていこうなどと思っています。

★★ヴィッテンベルク(4)に続きます

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