- 2024-1-27
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「HAUS SCHMINKE」・・・あ、これだ!
シュミンケ邸は、建築家ハンス・シャロウン(Hans Scharoun 1893-1972)が 1932年から 1933年にかけてオーバーラウジッツのレーバウに建てた工場主の家で、戦間期のドイツ建築の中で最も重要な作品のひとつとされている。(独語 Wikipedia:以下同じ)
施主と建築家
この建物は、現代建築のアイデアに精通していた施主のフリッツ・シュミンケとシャルロッテ・シュミンケ夫妻のアイデアやニーズとシャロウンが徹底的に対話することで生まれた。1929年にブレスラウのヴェルクブント・エステート(Werkbundsiedlung Breslau)を訪れた彼らは、そこで曲線と開放的な空間構造を特徴とする単身者用住宅を建設していたシャロウンに接触した。この建物は、Kirschallee 1bの敷地内にあるシュミンケのアンカー・パスタ工場(Loeser & Richter)の真隣に位置していた。現在は廃墟となっている工場には、いつかレーバウ市立博物館と市公文書館が入る予定である。
シャロウンは、有機的建築の代表とみなされている。彼はヒューゴ・ヘーリング(Hugo Häring)の理論を繰り返し参照した。したがって、シュミンケ邸は、ノイエス・バウエン(Neues Bauen)の中で、長方形や立方体に固執した他の方向性とは反対の立場をとっている。その代わり、シャロウンはここで、機能に応じて個々の形態を出現させることを許した。シャロウンのライフワークにおけるその重要性は、ベルリン国立図書館(ポツダム通り)Staatsbibliothek Potsdamer Straßeやフィルハーモニー・ベルリン(Berliner Philharmonie)といった、後の彼の建築に劣るものではない。
またシュミンケ邸は、この時代の住宅建築として、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエのヴィラ・トゥーゲントハット(Villa Tugendhat)、ル・コルビュジエのヴィラ・サヴォワ(Villa Savoye)、フランク・ロイド・ライトの落水荘(Fallingwater カウフマン邸)と肩を並べられるものである。
建物
中核となる建物は、東西に細長い鉄骨構造。1階には広々とした明るいリビングエリアがあり、上階にはシンプルなデザインの寝室がある。「1階と比べると、(上階は)まさにスパルタ的(質素な生活様式で、必要最低限のものだけ)という感じだ」。建物の東端にあるエントランスから、飛屋根のある玄関、前庭、そして互いにオープンに融合する階段ホール、子供たちのための遊び場とラウンジ、ダイニング・エリアが、主婦のユーティリティ・ルームのすぐ近くにある。備え付けのキッチンは、マルガレーテ・シュッテ=リホツキーによる省スペースのフランクフルト・キッチンのモデルである。
リビングと社交室は植物のあるサンルームと小さな公園に面している。スチール製の外部階段が両階の片持ちバルコニーを繋ぎ、「豪華客船」のサンデッキを連想させる。1階のカラフルな舷窓や子供部屋の「貧弱な」船の寝台も船を連想させるため、この家は今でも「ヌードル蒸気船」という愛称で親しまれている。海運の要素や形式言語への言及は、ブレーマーハーフェンで育った建築家による後の建築でも繰り返し見られるモチーフである。南側には工場が隣接しているため、以前は開けていた風景を眺めることができる庭園は、北側に向けられている。設計は、造園家ヘルマン・マッテルンの妻であった造園家ヘルタ・ハマーバッハー。1950年代に埋め戻された 2つの庭園の池及び照明と暖炉が、2006年に再び原状に戻された。
邸宅のその後の歴史
フリッツ・シュミンケは 1939年に徴兵された。他の多くの人々と同様、シュミンケ一家も 1945年 5月、前進する戦線から逃れるためにレーバウを離れた。彼らがレーバウに戻った時、彼らの家はソ連赤軍に接収され、旧レーバウ地区の一時的な軍司令部として機能していた。この間、赤軍兵士がシュミンケ一家の個人的な郵便物を密かにロシアに持ち去った。2010年、孫娘がその兵士のシュミンケ家にカードと手紙を返すことを決めた。
1946年 7月、シュミンケ邸は所有者に返還されたが、同時に所有者であったローザー&リヒター社(パスタ工場)から接収された。シュミンケ家のパスタはドイツ国防軍にも供給されていたため、シュミンケ家は「戦争犯罪人」とみなされた。1946年から 4年間、シャルロット・シュミンケはかつての自宅で子供たちのためのレクリエーション・センターを運営していた。1951年、シュミンケ一家はレーバウを離れ、ツェレ(西独ニーダーザクセン州)に引っ越した。
シュミンケ一家はこの家をレーバウの町を通じて FDJ(自由ドイツ青年団)にクラブハウスとして貸した。1952年夏、東ベルリンの「資産の保護に関する条例」により、ドイツ連邦共和国に住むシュミンケ家の財産が収用された(参照:未解決の財産問題)。1963年 12月からは「オズワルド・リヒター」開拓者の家として使用された。1990年夏から、レーバウ市はこの家でレジャーセンターを運営している。1993年、シュミンケ夫妻の娘たち、ゲルトラウデ・ブレクス、エリカ・インデルビートヘン、ヘルガ・ツンプフェは、この家を引き続き一般に使用することを条件に、自分たちに返還する権利を放棄した。こうしてレーバウ市がこの家の所有者となり、後援を協会に引き継いだ。
2020年 6月のシュミンケ邸
シュミンケの娘たちは、母親が使っていたベッド、寝室のソファ、ライティングデスクなど、オリジナルのものを元の場所に戻すことができた。邸宅とパスタ工場のガイドツアーに加え、現在(2020年)、邸宅は会議、祝賀会、宿泊の予約も受け付けている。
いやあ、なんとも数奇な運命に翻弄された家族と邸宅の物語ですね!これと相似形のストーリーはテューリンゲンとバイエルンの国境の町 Probstzellaにある「Haus des Volkes」とその施主だった Franz Ittingなどがあります。前後に東独領となった地域で戦前から事業を行っていた資本家たちの多くはこのような運命を辿ったということでしょう。
ところで・・・この時期の革新的な建築デザインは Bauhausや De Stijlなど「直線的な印象」があります。このシュミンケ邸は曲線も多用しています。何故だろう?
このへんの疑問を独語 Wikipediaの「ノイエス・バウエン(Neues Bauen)」の項目を訳して腑に落としておこうと思います。
「ノイエス・バウエンは、第一次世界大戦前からワイマール共和国時代(1910年代から1930年代)までのドイツの建築・都市計画運動である。この運動は、同時に発展していたオランダのニュー・オブジェクティブ運動やデ・ステイル運動との関連でとらえる必要がある。実験的な教育センターとしてのバウハウスや、最初の包括的な都市計画・社会プロジェクトとしての新フランクフルトは、新建築運動の代表的なものである。この方向性、ひいてはノイエス・バウエン運動全体は、Heimatschutzstil運動によって反対された。ノイエス・バウエンという用語は、建築家エルヴィン・アントン・グートキントが1919年に出版した教科書『ノイエス・バウエン』のタイトルに付けた造語である。
ノイエス・バウエンの目的は、合理化と類型化、新素材と素材の使用、機能的でシンプルなインテリア、社会的責任(長屋、裏庭、窮屈な空間とは対照的な、日当たり、風通し、採光の良さ)を中心に据えた、まったく新しい建築様式を開発することだった。その結果、多くの住宅団地が誕生したが、その多くは、各市町村議会で社会民主主義が多数を占めていた時代に着手されたものだった」
・・・要は「ノイエス・バウエン」は新建築運動としてバウハウス運動やオランダのデ・ステイル運動など直線的な建築様式をも含んだ包括的な概念で、全てが直線的なものではなうということですね。勉強になりました(笑)