- 2022-9-10
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★★★ザールフェルト Saalfeld/Saale -12- からの続きです
最後の区間も裏通りを歩きます。メイン通りの Saal Strasseとほぼ平行に走る道ですが、Johannisgasse、Jusengasse、Webergasseと、日本語に訳せば「小路」とか「横丁」というイメージの名前が付いています。いかにも裏通りという感じで修復も後回しにされているようです。
やはりこの名前は気になりますね。こちらで調べてみました。
ザールフェルトには、中世からユダヤ人のコミュニティが存在していた。14世紀初頭にユダヤ人のことが書かれている。彼らはシナゴーグを持つ共同体を形成していた。町の支配者であるシュヴァルツブルク伯爵は、彼らから年に4羽のガチョウを受け取っていた。しかし、1310年頃、ハインリヒ12世とギュンター15世は、この賦課金を町議会に委ねた。
1348/49年(ペスト時代)のユダヤ人迫害の際、ザールフェルトからユダヤ人が追放されたと言われている。1357年、エアフルトのユダヤ人社会の新しい創設者の中に3人のザールフェルトのユダヤ人が含まれていたことは、ユダヤ人の追放を物語っている。1362年、アブラハム・フォン・ザールフェルトがノルトハウゼンに入会した。1364年、ギュンター伯爵は、ザールフェルトの市民であるペーター・ベヘラーにシナゴーグを売却した。
レヴィ(レオポルド)・カッツは1874年6月18日、ビブラで生まれた。1942年9月28日、テレージエンシュタット・ゲットーで死亡。ファニー・カッツ、旧姓メイヤー 1876年1月6日、マルクトシュテフト/キッツィンゲンに生まれる。1943年2月6日、テレージエンシュタット・ゲットーで死亡。現在、ザールフェルトには、この夫妻を記念した 2つのシュトルパーシュタイン(つまがある。
↓↓ この建物はマルクト広場にそのまま残っています
Am Hügelという通りに出ると、ルネサンス風の破風を持つ建物が見え、その右手奥になにやら特徴的な「Stiefelgiebel(段々状の破風)」のある建物が見えています。
Schlösschen Kitzersteinと呼ばれる小さな城で、独語 Wikipediaによれば「この城は、2つの入植者の農場の跡地に建てられた。入植者の農場は、騎士オットー・フォン・エンツェンベルクとテューナの領主のものであった。1497年、修道院長ゲオルク・フォン・テューナは、皇帝によって帝国侯爵とされた。そのため、修道院は世俗的な影響力も持つようになった。その後、テュナスは町にも影響力を持つようになった。
不規則で建築的な高度な構造を持つ建物で、ザール段丘の急斜面に張り付き、東側の城壁を越えて多角的に拡張された。破風には豊かな装飾が施され、北ドイツ式の建築様式をおおまかに表している。中庭に面した角のオリエルには、トラスリーが施されている。尖ったアーチ型のポータルが入り口である。北側は、かつての壁塔を建物に取り込んでいる。」とあります。現在は音楽学校として使われています。
今回は裏通りを歩きましたが、いろいろと発見があるものです。
★★★ザールフェルト Saalfeld/Saale -14- に続きます