誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(44):★★★ゾースト Soest -5-

★★★ゾースト Soest -4- からの続きです

町のほぼ中央に、どっしりした存在感のある教会があります。聖パトロクリ聖堂(St.-Patrokli-Dom)St.-Patrokli-Domです。この地域で産出される緑色の砂岩のブロックが印象的です。

↓↓ 聖パトロクリ聖堂(St.-Patrokli-Dom):

ドイツの教会の名前といえば「St.Michael(ザンクト・ミヒャエル)」・「St.Pauli(ザンクト・パウリ)」・「St.Johannis(ザンクト・ヨハニス)」・「St.Marien(ザンクト・マリエン)」などというのが定番ですが、St.Patrokli(ザンクト・パトロクリ)」というのは他ではあまり他では聞かないですよね?ザンクト・ペトリの変化球かな?と思ったら、その「St.Petri(ザンクト・ペトリ)教会」は、なんとこのザンクト・パトリクリのすぐ向かいに隣接して建っています。左のやや小さいほうがそれです。
↓↓ 画像はクリックすると拡大しますのでご確認ください

上の航空写真は英語版で、この聖堂は「Cathedral of St.Patroclus」とあります。この Patroclusを調べてみると、どうやらギリシャ神話に登場する人物のようです。(英 Patroclus:独 Patroklos:日 パトロクロス

でも、何故ギリシャ神話の人物が、ドイツのカトリック教会の名前に?

英語版の Wikipediaの冒頭部分には「聖パトロクリは、ドイツ・ゾーストにあるローマ・カトリックの小教区・教会である。この教会は、ヴェストファーレンにおけるロマネスク建築の典型であり、建築史において重要な意義を持つ。そのため、St.-Patrokli-Dom(聖パトロクロスの「聖堂」)として知られている。954年からの守護聖人、トロワのパトロクロスの聖遺物を所蔵している。10世紀から 1812年に廃止されるまで存在した聖パトロクロスの正統な教団(修道会)の教会であった。


1823年からはパーダーボルン教区の聖パトロクリ教区の教会となった。1859年には宰相教会に昇格した。(In 1859 it was promoted to the rank of provost church.)」とあります。

✙✙ より詳細はこちらをクリック下さい(英語版 Wikipediaからの DeepL翻訳抜粋)

【キリスト教に詳しいわけではないので、下記を読んでも意味不明な部分が多いです。】

教会の権力政治のため、ゾーストは司教区の所在地ではなかったが、ヴェストファーレンのケルン大司教区の中心教会であり、大司教の副住居、第二の首都であった。後にヴェストファーレン公国となる地域では、地元貴族によって大砲騎士団が頻繁に設立された。その例として、メシェデ修道院、ゲーセケ修道院、オーディンゲン修道院などが挙げられる。ソエストでは、ケルン大司教であったブルーノ大王(オットー 1世の弟、ファウラー家ハインリッヒの息子)の治世の初めに設立のきっかけがあった。

トロワの聖パトロクロスの遺骨は、外交問題でフランス宮廷を訪れていたブルーノ大司教に贈られたものであった。彼はこの聖遺物をトロワからケルンに持ち帰り、4年間滞在した後、954年にゾーストに運ばれた。この都市で最初の聖遺物として、市民と聖職者は大きな祝福をもって迎えた。詳しい説明は『De translatione sancti Patrocli martyris』に記されている。

司教は、ゾーストとケルンに修道会を設立することを意図していた。そのため、ブルーノは遺言で、このプロジェクトのために 100ポンドの銀、典礼用具、パラメントを残している。彼の計画は、大司教フォルクマール(965-969)によって実行された。

最初のカノンはおそらくケルンの聖アンドレアス教会から来たものであろう。この修道士像は、おそらくソエストの新しい修道会のモデルとしても使用された。ケルン大司教の寄付によって修道院の所在地は拡大し、この地域の他の修道院からも寄付を受けるようになりました。しかし、大司教アンノ 2世(1056-1075)の時代に、さらに 4つのプレベンドを寄贈して拡張されるまで、かなり小さな支部にとどまっていたのである。その結果、修道士の数は倍増した。ダッセルのライナルド大司教(在位 1159-1167)は、1166年 7月 8日に修道院の教会を聖別した。

支部は自由な宰相(provost)の権利を持っていたが、1221年から宰相はケルン大聖堂の支部の出身でなければならなくなった。1257年からは、総督の職は、市とその周辺の小教区の首長職と統合された。これに加えて、彼はゾーストの後背地のための学長であった。後世、総督たちはケルン大聖堂の総督を大司教の座から引きずり降ろそうとした。これは15世紀にようやく実現した。修道院は教会の免罪符を持つ独自の地区を形成し、聖職者の予備教育のための学校も所有していた。

何世紀にもわたって、パトロクロス修道会はヴェストファーレン公国全体で最も強力で裕福な修道会であり、時には 54もの小教区がこの修道会に依存していたこともあった。少なくとも数世紀前までは、主に上流階級に属していた総督は、中世の大部分においてケルンの大聖堂支部の修道士であり、四大大司教の一人であった。時折、彼らはケルン大司教の役人でもあった。年に一度か二度だけ、総督はゾーストの聖パトロクリを訪れた(教会裁判を開くため)。それ以外の時間は、修道院の運営に責任を持つ学長たちが代理を務めていた。1444年から 1449年にかけての「ゾースト騒動」では、ゾースト市の領有権をめぐる争いが起こり、ゾースト市からケルン大司教に至るまで修道会に影響が及んだ。宗教改革は教団によって抵抗された。修道士たちは新しい教えに改宗することを拒否した後、街を離れた。聖パトロクリの一部は福音派の教会となった。1548年、ヨハン・グロッパー院長がカトリックを復活させ、修道院の修道士たちは戻ってきた。以後、1812年に廃止されるまで存続した。

まあ、パトロクロスという人物の遺骨(聖遺物)が信仰の対象になったとか信仰の権威付けとして利用されたということなのでしょう聖遺物Reliquie (von lateinisch reliquiae, „Zurückgelassenes“, „Überbleibsel“)を調べてみると「ほう、そういうものか」とは思います。8世紀のキリスト教では「もっとも重要な祭儀である「聖餐」を執り行う主祭壇の下には、聖人の遺体か、少なくともその一部が埋葬されていなくてはならないと定められた。このため聖堂を建てるときには聖遺物の入手が不可欠となった。」とのことです。

聖遺物は神の恩寵を地上に媒介することで奇跡を起こすと考えられた。そのため奇跡で評判の聖遺物を所有する者は、自分こそ神の恩寵にあずかる正しいすべを保持する正当な権力者であることを証明できた。そこで中世ヨーロッパ社会では高位聖職者や王侯貴族などの権力者が人脈や財力を駆使して、キリストや人気の高い聖人の聖遺物を入手しようと競った。また、聖遺物には奇跡を起こすちからによって大勢の巡礼者を引き付け、教会のひいては町、国の格を高め、さらには巡礼者(現在で言えば観光客)を引き寄せられるというメリットもあった。」とあります。ふむふむ、なるほど。

「聖体神学との関係:特別な力を認められた人物の墓や聖廟に詣でて祈願する宗教実践や、遺体、遺骨の分与が社会において一定の役割を果たす状況は、仏教、ユダヤ教、イスラーム世界にも認められる。だがキリスト教の聖遺物には「キリストの身体との関係」という特徴がある。キリスト教ではキリストが十字架にかかって自らの肉と血を神にささげた「受難」によって神の恩寵がこの世界にもたらされ、人の罪が購われたとされる。この救いの業を受け継ぐのが聖体拝領の祭儀である。その中で神にささげられ信徒に分け与えられる「聖体(パンと葡萄酒)」は、受難におけるキリストの肉と血と同じように神の恩寵を媒介すると早くから考えられていた。その後、苦しみながら神に命をささげる殉教にも受難と同じ価値があると考えられるようになり、聖人の遺体、聖遺物にも恩寵を媒介する力が認められていった。13世紀には聖遺物と司祭の仲介によって聖体がキリストの真の肉と血となるという聖体神学が確立する。」…はいはい、なるほど!

聖人崇敬は2世紀半ば頃にローマ帝国におけるキリスト教の迫害で命を落とした殉教者の遺体を信徒が手厚く葬ってその生涯と徳をたたえ、信仰生活の模範として仰いだことに始まる。信徒たちは聖人の命日に墓に集まり儀式を執り行った。やがて殉教者の遺体を中心に聖堂が建立されるようになった。4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となってのち、殉教者や神意にかなった生き方を貫いたとみなされる聖職者や信徒に、死後「聖人」の称号が与えられるようになった。そして聖人とその遺物に加護と神への取り次ぎを求める様々な宗教実践が形成されていった。これには日々の願掛け、治癒の奇跡などが含まれる。」…うんうん、わかります。

で、なんでギリシャ神話の登場人物がキリスト教(当然カトリック)の聖人扱いになるのさ?(笑)

★★★ゾースト Soest -6- に続きます

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