誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(66)★★★グランゼー Gransee -6-

★★★グランゼー Gransee -5- からの続きです

私好みの都市城門が見えます。Ruppiner Torで、そこから伸びる道路は当時このあたりの中心だった Ruppin(Neurippin、Altruppin)に続いています。

「フォンターネによれば、グランゼーは「ルッピン郡で最も堅固な町」と考えられていた。Sedenicker Torと Ruppiner Torを持つグランゼーには、もともと町の入り口が2つあり、そのうちの Ruppiner Torが保存されている。これは中世の町側の複合施設の内部で、かつては表門と犬小屋もあった。

町側のファサードは、15世紀の後期ゴシック煉瓦建築で、ブラインドとトレーサリーで豪華に装飾されている。町の外側と破風は、19世紀末に当時の記念物保存の要求に従って再建された。

現在、ルッピン門と火薬塔を含むほぼ完全な形で保存されている城壁は修復され、遊歩道や城壁遊歩道を歩いてその全貌を見ることができる。ルッピナー門は美術展に利用されている。鍵は、隣接する郷土歴史博物館の開館時間内に入手できる」(町の公式サイトより

尖った屋根を持つ塔は Pulverturm(火薬塔)と呼ばれています。

「ルッピン門の脇には、もうひとつの簡素な通路、いわゆるヴァルデマール門がある。14世紀、グランゼーの市民は「偽ワルデマール」の詐欺に引っかかった。その罰として、市民は、ワルデマールが何の障害もなく町に入ることができた門を城壁で塞ぎ、その隣に小さな門を町の城壁に作らざるを得なくなった。プロイセン王が旧市街の門の開放を許可したのは 1818年のことだった」(観光サイト)・・・という記述があります。「偽ワルデマールの詐」?なんでしょうね?ちょっと気になります。

「偽ヴォルデマールまたは偽ヴァルデマール(† 1356年アンハルト州デッサウ生まれ)は、1348年から 1350年までカレル 4世によってブランデンブルク侯領に封じられたドイツの詐欺師」(独語 Wikipedia)・・・お?なんだなんだ?(笑)

1319年、アスカニア家出身のブランデンブルク侯ワルデマールが死去すると、翌年にはアスカニア家のブランデンブルク分家全体が消滅した。その後、バイエルン王ルイ4世は、1323年に息子のルイにブランデンブルク侯領を与え、ブランデンブルクにおけるヴィッテルスバッハ侯の家系が始まった。

1348年、ヴァルデマール侯爵を名乗る巡礼者が現れた。彼は 1319年に亡くなったのではなく、巡礼の旅に出ていたのだった。この偽ワルデマールは、ブランデンブルクにおけるヴィッテルスバッハ家の敵対勢力に認められた。その結果、新しいヴァルデマールは、国王カレル 4世によってブランデンブルク侯領を与えられた。しかし 1350年、後の皇帝はヴィッテルスバッハ家と合意し、ヴァルデマールを退位させた。

バイエルン侯領は、ヴァルデマールを承認していた町々を罰した。これらの町は、偽ワルデマールが通った城門を城壁で囲わなければならなかった。城壁に囲まれた門の隣に建てられた新しい門は、ワルデマール門と呼ばれた。

CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム 3世が城門の開放を許可したのは 1818年のことだった・・・う~ん!要は「偽ワルデマール」に騙された都市は、罰としてその穢れた門を城壁で囲んで閉鎖しなければならないという罰を与えられたということでしょうか・・・

でも、その偽ワルデマールに騙された本家本元のヴィッテルスバッハ家はお咎めなしで、偽ワルデマールも最後まで処刑もされず楽しく暮らしているんです。なにやらツッコミどこと満載の歴史ですが、まあ、いいか(笑)

門を外側から見たところです。右側は 1992年、2度目の駐在からの帰国間際に撮ったものです。よく見比べると、門の前にあるブロンズ像がありません。

「アンナとオットー」
彫刻家:ゲルハルト・ロンメル
2005年 5月 1日の設置は、MBS POTSDAMの支援により実現した。

EBERHARD ESCHE
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★★★グランゼー Gransee -7- に続きます

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