誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(68)★★ ヴァーレン Waren -8-

誰も知らないドイツの町(68)★★ ヴァーレン Waren -7- からの続きです

旧東独時代の名残を残す家屋。この町では、今となってはこれが絶滅危惧種になっていますが。当時はこういうのばっかりだったんですよ!

ソ連占領地域とドイツ民主共和国(1945-1990)

10月、ソ連軍司令官はフリードリヒ・デトロフ(KPD)を市長に任命する命令を出した。キーツ通り10番地のソ連NKVD事務所は「恐怖の家」と呼ばれ、過酷な尋問と拷問で知られていた。年末までに、東ドイツ領からの避難民が 6,000人以上、合計 19,872人に達したが、そのうち戦前に住んでいたのは 13,779人だけだった。人口の 30.6%が難民だった。1946年の春にはチフスが流行し、多くの人々が命を落とした。メメファの施設とティーレとブギッシュの蒸気工場は賠償金として解体され、ソ連に持ち去られた。ロストック-ノイシュトレリッツ鉄道線とマルチョフーカロフ間、メレンハーゲン-ノイブランデンブルク間は廃止され、線路は撤去された。

ドイツ民主共和国時代には、まったく異なる生産条件のもとで、一定の繁栄が達成された。1952年の行政改革で、ドイツ民主共和国は 14の地区と郡に分割された。ヴァーレンはヴァーレン県の行政の中心地であり、他の 13の県とともにノイブランデンブルク県に属していた。

1963年、ヴァーレンは町制施行(とされる)700周年を迎えたが、1263年という年号を示す資料はなかった。 町は、600年または 700年以上の歴史を持つすべての町が享受できる経済的利益をもたらすことを期待していたようだ。

1970年代、歴史的な旧市街の大部分が大規模な交通計画の犠牲になり、取り壊された。この喪失によって、ヴァーレンの多くの住民は、旧市街に残る、しばしば数百年の歴史を持つ建物の保存を求めるようになった。ドイツ内国境が開放されるずっと以前から、ヴァーレンでは「旧市街を守ろう」という市民運動が起こり、その活動が今日の中心街の保存に重要な役割を果たした。住民によって拒否された介入は、工業化によって克服されるべき地域の後進性という考えに基づいていた。ヴァーレンの「鉄工所」とパスタ工場はそれに応じて近代化され、段ボール工場、食肉加工工場、大型パン工場、ミュリッツミルチホーフ酪農場が建設された。ヴァーレン西部地区は、これらの工場で働く新しい労働者を収容するために建設された。

1954年、ヴァーレンは気候保養地として認定された。この年、ヴァーレンは気候保養地として認定され、多くの子供たちが中央開拓時代のホリデー・キャンプラ・パシオナリア」で療養した。1955年にはすでに温泉行政が行われていた。とはいえ、農業、そして工業が依然として計画の中心であったため、観光インフラは限られた範囲でしか整備されなかった。
1962年、SED中央委員会政治局の農業・林業担当長官ゲルハルト・グリューネベルクの働きかけにより、ノッセンティナー・ハイデ州立狩猟場(アカシカ)が設立され、そこにギュシュトロウ、パルヒム、マルヒョフ、ヴァーレン(ミュリッツ)の州立林業企業が統合された。

ヴァーレンの近くには、ドイツにあるソ連軍グループの4つの核ミサイル発射基地のうちの1つがあった。

町はリヒャルト・ヴォシドロ文化賞を寄贈し、1978年にヴァルター・プライクが第1回受賞者となり、ドイツ再統一後も同賞が授与された。プライクはドイツ民主共和国時代に一連の動物彫刻を制作し、現在でも街の散歩道で見かけることができる。その中には、ビネンミュリッツ河畔の遊歩道に立つブロンズ像『Lütt Matten, de Has』(1974年)や『Die Wölfin』(1985年)などがある。

1989年 10月 8日、ニュー・フォーラムのヴァーレン・グループが結成され、一連のデモの後、10月 16日、300人の市民がゲオルゲン教会からマリエン教会までろうそくを持って行進し、ヴァーレンで初めて集会が開かれた。彼らのモットーは「希望は歩くことを学ぶ」であった。

ヴァーレン(ミュリッツ)の聖ジョージ教会(De Oll Kerk)は、メクレンブルク=フォアポンメルン州 メクレンブルク・ゼーンプラッテ地区のヴァーレン(ミュリッツ)の 歴史的中心街にあるプロテスタントの教区教会である。独自の情報によると、ザンクト・ゲオルゲン教区には約1600人の教会員がおり、北ドイツ福音ルーテル教会のメクレンブルク教会管区ノイシュトレリッツ管区に属している。

教会が最初に言及されたのは 1273年頃。構造的な遺構が残っていないことから、これはまだ木造の教会であったと思われる。現在の教会堂の建設は 1300年頃に始まった。14世紀初頭の聖ジョージ教会は、リブ・ヴォールトに覆われた 4層の身廊を持つ3廊式のバシリカだった。建物はレンガ造り。正方形の西塔は 1414年のもので、1699年の火災で内部と鐘楼が焼失した。熱で鐘まで溶けてしまった。ネオ・ゴシック様式に改修されたのは 19世紀半ばになってからである。1867年の復活祭に再聖別された。

1990年以降

ドイツ民主共和国の再統一と平和革命の後、ミュリッツ川とティーフヴァレンゼー川に挟まれた歴史的な市街地は、1991年から都市開発計画の一環として再開発され、3つの教会、市庁舎、新旧の市場、倉庫群などの街並みが整備された。ヴァーレンは1999年 5月 1日から「州公認の気候的健康保養地」に指定され、2012年 6月からは温泉の町としても知られている。食塩水は食塩水として採取され、販売されている。
州の狩猟場であり、ヴィリー・シュトッフ閣僚理事会議長の住居であったスペッカー・ホルストの閉鎖が解除された。しかし、この地域の経済発展に貢献したのは主に国立公園であり、適切な構造物の助けを借りて、再び観光業が地域経済の柱となった。この国立公園は、ドイツ民主共和国の環境副大臣ミヒャエル・サッコーによって始められた。彼は、1990年 9月 12日に解散する前の最後の閣僚理事会で、ドイツ民主共和国のほぼ5000km²の領土を国立公園計画によって保護下に置くことに成功した。
1994年、ヴァーレン地区とレーベル/ミュリッツ地区が合併し、ミュリッツ地区が誕生した。ヴァーレンは引き続き県庁所在地である。2011年の地区改革以降、町はメクレンブルク湖水地方に属している。

そしてここにも中東系(難民)向けの飲食店が・・・

ICEもいいんですが、最近、車両の更新期に入った ICもなかなかいいんですよ。

以上、旧東独とは思えないほどに一皮剝けたリゾート都市ヴァーレンの紹介でした。旧東独の町には「当たりはずれ」がありますね。シュヴェリンやドレスデン、エアフルトやマグデブルクのような州都はさておき、中小零細の地方都市ではなんらかの観光スポットをもっており、それを有効活用できる能力のある行政手腕と、町を何とかしようという熱意のある人が加われば町は発展します。ヴァーレンなどはそのいい例でしょう。他にも小さいながら成功している町もあります。

逆にそれらのいずれかが欠けると町は没落していきます。そんな「限界集落」的な町を沢山見てきました。ここで紹介している町の大半はそんな感じかと思います。二十年後には、この町はどうなっているんだろうと心配になるような・・・ふと、自分でその町のマーケティンマネージャーとして手を挙げて見たくなるような(笑)

誰も知らないドイツの町(68)★★ ヴァーレン Waren を終ります。

さて、ここまでで 2022年に3週間かけてドイツ放浪した時に訪問した町を全てアップし「在庫がなくなった」状態です(笑)でもご心配なく!2023年に6週間、2024年には4週間の放浪をして、また在庫をたっぷり貯め込みました(笑)向こう2年分くらいは十分もつのではないかと思います。更に「旧ドイツ領」の町も数多く放浪してきたので「誰も知らない旧ドイツ領の町」という新シリーズも始めることができそうです!

シリーズ:誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte に戻ります。

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