- 2021-9-9
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★★★アイレンブルク Eilenburg -3- からの続きです
引き続きWikipediaを読み進めていきます。七年戦争あたりからドイツ帝国勃興期あたりまでをカバーします。産業化の波に乗ってすごい発展を遂げます・・・え?自分で町を歩いた写真が無いじゃないかって?いや、ちゃんと最後には纏めて蔵出し予定です(笑)
「ゆっくりとした経済の向上は、七年戦争(Siebenjähriger Krieg)によって突然終焉を迎えた。アイレンブルクでは、ほとんどの男性が兵役に召集された。この町はオーストリアとプロイセンに交互に占領された。戦争が終わる頃には、アイレンブルクは再び貧困と略奪の町になっていた。18世紀末には経済が停滞した。商用車が町を通過するという道路委任状による収入がなくなったため、アイレンブルクは取るに足らない田舎町になってしまった。」・・・ザクセン選帝侯領(これまでの話の流れでは「兄アルベルト系」の領土)に属していたアイレンブルクも、七年戦争のドタバタでプロイセンとオーストリアに交互に占領されたということですね。
Gemeinfrei, Link
で、その後「フランス革命によって経済は若干上向きになったが、1806年から 1813年まで続いたフランスの統治によってそれは失われた。連合戦争中、ナポレオンは 1813年、ライプツィヒ近くの諸国民の戦い(Völkerschlacht bei Leipzig)の直前にアイレンブルクに宿舎を構え、今日のアイレンブルク=オストにあるキュルツシャウの前で、連合軍であるザクセン軍の最後の閲兵式を行った。ナポレオンの敗北後、アイレンブルクは、1816年のウィーン会議でザクセンがプロイセンに割譲しなければならなかった地域に属していた。プロイセン改革の結果、極めて近代的な国家に所属したことが、アイレンブルクが農村から工業都市へと移行するきっかけとなった。」・・・ザクセンが敗れたナポレオン側についたので、ウィーン会議による戦後処理では、アイレンブルクはプロイセンに割譲されましたが、そのおかげで工業化の波に乗ることができたということですね。まったく、何が幸いするんだか(笑)
Von Museum für saechsische Vaterlandskunde – Gemeinfrei, Link
「その直後に始まった工業化により、いくつかの繊維工場がアイレンブルクの郊外に設立され、ベルリンと並んでプロイセンの繊維生産の最も重要な中心地となった。重要な工業都市に成長したのは、主に近隣のザクセン王国の影響によるものだった。プロシアの市場への無税アクセスを得るために、現地の実業家がアイレンブルクに支店を開設した。商業都市ライプツィヒに近く、ムルデ川に面していることという 2つの重要な立地上の利点があった。農村からの人口流入が始まったことで、アイレンブルクの人口は急増し、Delitzsch, Torgau, Bitterfeld, Wittenbergよりも大きな町になった。」
「工業化とそれに伴う人口の急増による社会的緊張から、強い労働者運動が起こり、その中心となったのがこの町である。
例えば、1849年には Krankenkassenunterstützungsverein(健康保険組合)が、1850年にはドイツ初の食品協同組合である Eilenburger Lebensmittelassociation(Konsumgenossenschaft Sachsen Nord)が、ドイツ初の信用協同組合である Darlehnskassenvereinが設立された。フランクフルト国民議会の議員であったアイレンブルク・キャラコ印刷工場のオーナーであるカール・デーゲンコルブは、自らの工場にドイツ初の労働者評議会(Betriebsrat)を設立した。
鉄道網への接続とそれに伴う褐炭採掘地域へのアクセスにより、アイレンブルクの経済は発展し続けた。化学工業と木材・金属加工業が主な産業として定着していた。後にドイツセルロイド工場となるライプツィヒの会社「メイ&カンパニー」の入植により、100年以上に渡って町を形作ってきた会社が入植したのである。1904年に設立された Gebr.Zimmermann Aktiengesellschaft Eilenburgのピアノ工場により、アイレンブルクはヨーロッパ最大のピアノメーカーの主要拠点となった。1902年に Eilenburger Motoren-Werk AGが設立され、Eilenburgは自動車メーカーの本拠地となった。大企業は、町に高い税収をもたらした。」
(左上)Nikolaiplatzの壁画:1850年に設立されたドイツ最古の信用組合 Eilenburger Darlehenskasse
(左下)旧Gasthof Zur Roseにあるプレート:1850年7月12日、ドイツ初の消費者協同組合として、アイレンブルクの食品協会が設立された場所
(下)Eilenburger Chemiewerk(Deutsche Celluloid-Fabrik (DCF))
Von unbekannt – Leipziger Volkszeitung, 9. Februar 2015, Seite 28, Bild-PD-alt, Link
「この快適な財政状況は、20世紀初頭に行われた町の拡大に現れた。旧市街の南東部には、多くの代表的な建物がある地区が作られた。その中には、リアルギムナジウム(1904~1906年)、老人保護施設(1907年)、王立教師セミナリー(1909~1911年)、兵舎(1913~1916年)、ライヒスバンクの支店(1923年)などがあった。都市の建築物を担当したのは、オットー・レムケ Otto Lemke。インフラの整備は、地方から多くの人が流入し、経済的な重要性が増していることを考慮して行われた。」
・・・なんか、コワいくらいの順調な発展ぶりに見えますね!まあ、この頃のドイツ帝国は概ねどこも上り調子だったのでしょう。・・・でも、こういうのって、大抵ドンデン返しが待っているんだけど・・・
★★★アイレンブルク Eilenburg -5- に続きます