- 2021-9-8
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★★★アイレンブルク Eilenburg -1- からの続きです
町の中心の形は楕円形をしていて、昔から変わっていないように見えます。現在の航空写真と、Wikipediaから借用した 1762年の地図は、骨格をなす道路といい、周辺の水路といい、ほぼ同じてあることがわかります。さて、この記事を書き始めるまで何の予備知識も無かったので、独語 Wikipediaを読み解いていきましたが・・・なんとその入口のところで既に「衝撃的事実」が発覚したのです!・・・あ、発覚って言わないかな、こういう場合は(笑)しかし、そ~だったんですか、川崎さん!(古い(笑))
↓↓ 画像はクリックすると拡大します。比較してみて下さい。なお 1762年の古地図には「Eulenburg オイレンブルク」と表記されています。楕円の長軸の少し上あたりに、ほぼ東西に走るメインの通りも両方に見えますね。航空写真をクリックすると「ライプツィガー通り」とありますが、マルクトから東は「トルガウァー通り」という名前です。ドイツの通りの名前は、この先どこに繋がっているか・・・というのが多いですね。さて、この道路も実は大変な「道」なんです!
Wikipediaの冒頭部分には「アイレンブルクは、ザクセン州の北西部、デュベナー・ハイデの端にあるムルデ川沿いの町で、ライプツィヒの北東約 20kmに位置している。北ザクセン郡に属する町で、人口は 16,000人弱、同郡では 4番目に大きい町で、広義のライプツィヒ・ハレ都市圏に属しており、ドイツ中部の都市圏に属している。アイレンブルクは、2つの連邦道路といくつかの鉄道路線により、ザクセン州と中央ドイツの道路・鉄道網によく組み込まれている。」とあります。
続けて「961年、オットー 1世の文書の中で初めて「civitas Ilburg」が言及された。ヴェッティン家のフリードリッヒ 1世により、ヴェッティン王朝が町と国を支配するようになった。アイレンブルク城は、そこ出身のヴェッティン家のハイリンヒ 1世が、時の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ 4世から、1089年にマイセン辺境伯の地位を授けられたことにより、ザクセンの領邦国家(Territorialstaat)が設立されたことから、ザクセン発祥の地(揺籃の地、よく「ゆりかご」に例えられる:Wiege)とされている。ヴェッティン家の人間がこの地域を支配したのは初めてのことであった。高台に建設された城の保護のもと、1200年頃には Via Regiaに計画的な町並みが形成された。」
えええ~っ!そうだったの?前章でトルガウを採りあげ、ヴェッティン家がザクセンを支配し、それが分割されて、マイセンとトルガウが兄弟それぞれの居城となった・・・という話を書き、その前にアスカニア家の男子相続者が絶えたので、時の神聖ローマ皇帝ジギスムントは、ザクセン・ヴィッテンベルク領を、マイセン辺境伯フリードリッヒ好戦公に与えたということも書きました。
ヴェッティン家の分割は 1485年の話・・・それを遡ること約 400年、そもそもヴェッティン家がマイセン辺境伯になったのは、1089年のここにルーツがあったんだ!それ、先に言ってよ~(松重豊調(笑))これだから、何の変哲もない小さな田舎町でも、ドイツは侮れない!
ところで、上にある「Via Regia」って何だ?まあイタリア語として推測すると「王様の道」みたいな意味というのは分かりますが、何それ?・・・ということで、リンクを辿って Wikipediaをチェックしてみます。
Von Maximilian Dörrbecker, CC BY-SA 2.5, Link
え?これって「ホタテ貝をシンボルとしている Santiago de Compostelaへの巡礼路」じゃないですか!え?ここを通っていたのか!それも先に言ってよ~(笑)
このシリーズの第一回目に採りあげた「★★ ゲルリッツ Görlitz」に、ホタテ貝の印を発見して「へぇ~、ここを通っていたんだ」と感動しましたが、上の地図を見ると、「王の道」はそのゲルリッツからライプツィヒに繋がっているので、確かにその経路のここを通っていても不思議ではないですね。
だとすると、トルガウも経路のハズだけど、そういう記述が見つからなかった方がむしろ不思議・・・あ、トルガウはプロテスタントの牙城となったから、カトリックの巡礼路だったことはは無視したのかな?・・・いやあ、いずれにしても侮れない小さな田舎町!
↓↓ ちなみに巡礼の目的地 Santiago de Compostelaには 2019年 12月、今にして思えば、コロナが流行し始める直前に行ってみました。歩いたわけではありませんが!(笑)
★★★アイレンブルク Eilenburg -3- に続きます