誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(32):★★★アイレンブルク Eilenburg -3-

★★★アイレンブルク Eilenburg -2- からの続きです

ザクセンを支配したヴェッティン家のルーツがこんなところにあったことを知りましたが、その後もこの小さな町は歴史の荒波に翻弄されていきます。引き続きWikipediaを読み進めていきます。

手順前後になりますが、町の名前の由来に触れておきます。「この地域のほとんどの地名と同様に、Eilenburgという名前はスラブ系の起源を持っている。これは、961年に Ilburgとして初めて言及された Eilenburg城(Burg Eilenburg)に由来している。貴族の家系オイレンブルク家がその名を冠したのは、この城に由来する。何世紀にもわたって、様々な形(Hilburg, Ilburg, Hilburch, Ilburc, Ileborch, Ylenburg, Jilburg, Yllenburck, Eylburg, Eylenburg, Eylenberg, Eyleburg, Illeburg, Eilenburgk, Eulenburg, Eulenburgk)で受け継がれてきたため、様々な解釈がなされてきた。最も確からしそうな説は、イルブルグは、粘土やロームが堆積した場所を意味するスラブ語の ilにまで遡る可能性が高いということある。音韻変遷により、Ilburgは現在の地名になった。」とあります。

右の画像は銅版画家のドーシェ(1696年)が描いたアイレンブルクの最も有名な作品の一つですが、楕円形の城壁を Via Regiaが貫き、その向こうに Burg Eilenburgが見えます。

Eilenburg 1696.jpg
Von Autor unbekannt , Gemeinfrei, Link

14世紀後半には、マイセン辺境伯ヴィルヘルム 1世のもとで、町はさらに発展した。1362年には都市権(Stadtrecht)が与えられた。1394年から 1404年にかけて、この町は重要な主権的特権を得た。貿易、Via Regiaとその周辺の物資輸送、そして特に酒造業によって、町は一定の繁栄を遂げ、それは町の要塞(1500-1509年)、学校(1514年)、導水管(1514年)、穀倉(1549/1550年)などの多くの建物に反映された。1548年には、合計14の醸造所があった。」・・・と順調に発展して行きます。

Lucas Cranach d.Ä. (Werkst.) - Porträt des Martin Luther (Lutherhaus Wittenberg).jpg
Von Atelier/Werkstatt von Lucas Cranach der Ältere, Gemeinfrei, Link

宗教改革の時代には「1517年 10月 31日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉にテーゼを貼ったというニュースは、瞬く間に広まり、修道会の要求にかなり苦しんでいたアイレンブルクの人々の間で熱狂的な支持を得た。改革的な考えは、アイレンブルクの評議員、聖ニコライの伝道師、官吏達の間でも支持された。」

ルターは1536年と1545年のマリエン教会での説教を含めアイレンブルクに7回滞在した。地元の歴史家によると、ルターは当時栄えていたこの町に自分の老後の家を移すことを考えていたという。彼はこの町を「祝福されたラードの穴(gesegnte Schmalzgrube)」と表現した。」

「ライプツィヒの印刷業者であるニコラス・ヴィデマー Nikolaus Widemarが Eilenburgに居を構えた。彼はプロテスタントの思想を住民が認めていることを利用して、ルターやメランヒトンの著作をここで出版したが、これはカトリックのライプツィヒでは失敗に終わっただろう。1523年から 1524年にかけて存在したこの印刷所は、当時のトーマス・ミュンツァーの唯一の出版社として特に重要な役割を果たしていた。」

「ウィデマー自身もアイレンブルクの住民であり、1541年から1546年まで市の行政に関与した。」・・・など、かなりプロテスタント色が強く、ルターの訪問やプロテスタント書物の出版など、宗教改革時代には、かなり重要なポジションにあったようです。「祝福されたラードの穴(gesegnte Schmalzgrube)」が意味不明ですが(笑)

Eilenburg um 1650.jpg
Von Matthäus Merian – Sammlung H.-P.Haack, Leipzig, Gemeinfrei, Link

Gustav II Adolf porträtterad av Jakob Elbfas ca 1630.jpg
Von Jacob Heinrich Elbfas, Gemeinfrei, Link

三十年戦争もアイレンブルクに影響を与えた。当初は戦闘を免れたものの、戦争による壊滅的な経済的影響を受け入れなければならなかったのだ。1631年以降、この町は戦争に直接関わっていた。1632年 11月 16日、リュッツェンの戦いで倒れたスウェーデン王グスタフ 2世アドルフは、宿屋「ツム・ローテン・ヒルシュ」に安置された。1639年、アイレンブルクはゲオルグ・フォン・デルフリンガーの軍勢の手に落ちた。1646年、ザクセンとスウェーデンの間で、期限切れとなるケッツシェンブロダの休戦協定を延長し、一般的な和平協定(ウェストファリアの和平)が成立するまで、さらに和平交渉がアイレンブルクで始まった。1648年 9月 14日に締結されたアイレンブルクの和約により、ザクセン選帝侯領(Kursachsen)は三十年戦争の終結を迎えた。その後、町は復興した。」

へ~っ!あの三十年戦争で破竹の勢いでドイツを席巻したスウェーデン・・・国王グスタフ・アドルフ自身が参戦して戦死して以来、スウェーデンの勢いは止まった・・・あの戦死したグスタフ・アドルフが安置されてたの?三十年戦争は有名なミュンスター・オスナブリュックの講和で終結したことになっているけど、局地戦的にはスウェーデンとザクセンの間で、このアイレンブルクで和約が結ばれていたんだ。こういうの、知らないですね~!

Aufbahrung von Gustav II. Adolf in Eilenburg 1632.jpg
安置されるグスタフ・アドルフの遺体 Von Ernst Albert Fischer-Cörlin, Gemeinfrei, Link

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遺体が安置された宿屋「Zum Roten Hirsch」(現在は博物館)Von (Johannes Kazah) , CC BY 3.0, Link

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和約が結ばれた市庁舎 Von (Johannes Kazah) , CC BY 3.0, Link

また、この時期に「Martin Rinckart, 別名 Rinkart (* 1586年4月23日または24日、Eilenburg; † 1649年12月8日 同上) は、ドイツの詩人、プロテスタント神学者、バロック時代の教会音楽家である。コラール「Nun danket alle Gott」の生みの親でもある。」という人がおり「1617年には、故郷のアイレンブルクにある聖ニコライ教会の大司祭に任命され、30年戦争中は飢饉や疫病などの困難な状況下で働き、1639年にはスウェーデン人による略奪から町を救った(嘆願書の提出)」という活躍をしています。

私自身は賛美歌には全く疎いのですが「彼の多くの著作や賛美歌の詩の中で、何よりも生き残っているのは、世界中で知られ、愛されている賛美歌「Nun danket alle Gott」である。この曲は、ロイテンの戦いの夜、生き残ったプロイセン兵がリンカートの歌を歌ったことから、「ロイテンの合唱」として永遠の名声を得た。」とあります。

Martin Rinckart.jpg Gemeinfrei, Link

↓↓ J.S.バッハによる曲のYouTube動画を貼っておきます。

★★★アイレンブルク Eilenburg -4- に続きます

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