誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(52):★★★バート・ケストリッツ Bad Köstritz -5-

★★★バート・ケストリッツ Bad Köstritz -4- からの続きです

人口3千人余りの小さな町なので歩き回る場所もそう沢山はありません。下の拡大写真の交差点周辺に主な建物は集まっている感じです。上の航空写真では、町のサイズと比べていかにビール醸造工場の巨大かが分かりますね。


ハインリヒ・シュッツ

Heinrich Schütz
の記念館があります。町の入り口にも看板があり、また白エルスター川の水力を利用した発電所・製粉所からここまでのメイン通りは Heinrich-Schütz Strasseと名付けられているように、この町出身の重要人物のようです。

Wikipediaによれば「ハインリヒ・シュッツはドイツの初期バロック音楽を代表し、ヨハン・ヘルマン・シャインやザムエル・シャイトとともに「3S」と呼ばれる。大バッハ生誕のちょうど100年前に生まれ、ドイツ音楽に息吹を与えた「ドイツ音楽の父」と形容される。

ドイツ語で「シュッツ」とは射手座を意味することから、そのラテン語である「サギタリウス」(Sagittarius) というあだ名で呼ばれていた[2]。出版楽譜には姓名どちらもラテン読みを当てた「ヘンリクス・サギタリウス」(Henricus Sagittarius) を示すものもあり、また自ら署名する時にはラテン語を意識してハインリヒ (Heinrich) を必ず「ヘンリヒ Henrich」と書いたという。

シュッツはドイツ初期バロック音楽の最も重要な作曲家と考えられている。若い頃にはオルガニストとして訓練を受けたものの、やがてイタリア初期マドリガルの様式で、ドイツ語の宗教的テキストに音楽をつけた声楽曲を作曲するようになり、宮廷礼拝の用に供した。また宮廷の娯楽やたしなみのための音楽も書いた。晩年の受難曲はドイツ風の聖書物語音楽の形式を基礎とし、これにイタリア風オラトリオの形式を加味したものである。

ヴェネツィア楽派複合唱様式、コンチェルト様式、通奏低音書法をドイツにもたらし、宗教戦争時代の苦悩を体験した人として、ヨハン・ゼバスティアン・バッハに至るドイツ・バロック音楽の基礎を築いた。彼の業績は19世紀後半になって認識されるようになる。」・・・という人物です。


町のサイズには不釣り合いな大きなホテル Hotel Goldner Loewe(金色のライオン)があります。これは市の公式サイトにも解説があります・・・「ホテル「ゴールドナー・ローヴェ」は、村の中で最も古い代表的な建物の一つであり、常に「もてなしの家(Haus der Gastlichkeit)」であったことは明らかである。

Untere Schänkeと呼ばれるこの荘園(Rittergüter)は、当時東テューリンゲン州やケストリッツの封建騎士・従者だったヴォルフラムスドルフ家のもので、ヴォルフラムスドルフはこの荘園に住んでいた。16世紀初頭、シェーンケは、後にケストリッツ城となるこの荘園の2つの世襲旅館(ソルブ語で「クレッチマーレ」とも呼ばれる)のひとつだった。

ハインリッヒ・シュッツの生家であり、現在、研究・記念施設となっている「ハインリッヒ・シュッツハウス」とともに、「ウンテレ・シェンケ」(後に「グラウアー・ウルフ」とも呼ばれる)はケストリッツの商業醸造技術の起源とされる二つの歴史的建造物の一つである。1558年に創立されたイエナ大学の学生たちも、ケストリッツのおいしいビールを高く評価し、この地を歩いてきたという。

両家とも火事で何度も焼失したが、そのたびに同じ目的で再建された。ロイス・シュライツ家(弟系)が「ウンテレ・シェンケ」を購入したことで 1696年以来、「伯爵の宮廷ビール醸造所(Gräflichen Hofbrauerei)」が供給するビールのために支配的な居酒屋のひとつとなった。以来、この家は醸造の歴史とも密接に関係している。

世紀末に「侯爵醸造所 Fürstlichen Brauerei」が新築されると、ホテル「ゴールドナー・ローヴェ」もアールヌーヴォー様式で惜しみなく改築された。このとき、階数を増やし、現在でも特徴的なファサードを持つようになった。浴場や温泉があった時代には「広場の 1軒目」として、多くの著名なお客様を迎えていた。数年の中断を除いて、ホテル「ゴールドナー・ローヴェ」は常にバート・ケストリッツの市民生活の中心であった。数々の社交行事や冠婚葬祭で、全国的に知られた良い評判を確保した。

1990年以降は、オーナーやテナントが頻繁に入れ替わり、先行きの見えない時代が続いた。1998年、歴史的建造物保存のためのガイドラインを尊重しつつ、最新のホテル事業コンセプトに基づいて全面改装され、この地域で最も魅力的なホテルのひとつに発展した。1999年11月27日、一般公開が再開された。

特筆すべきは、部屋のネーミング。部屋には番号が振られておらず、ケストリッツの人物や名所の名前が記されている。H・シュッツ、J・シュトルム、G・ベンダまたはパレ、サン・レオンハルト、ダリア・スイート、ロイセン・ギャラリーなど」

バート・ケストリッツ城Schloss Bad Köstritz:市の公式サイトの解説を下に引用しておきます。

バート・ケストリッツの城郭は、ロイス家の歴史と密接に関係している。1668年には「廷臣の土地(Landes der Vögte)」のさらなる分割を防ぐために、長子相続制を導入した。これは、「後から生まれた人」に対する領地相続の支払いとも関連していた。ケストリッツの「Unteren Hofes」を購入したことで、ロイス・シュライツ・ケストリッツ(弟系)の基礎が作られた。

1687年以降、ハインリヒ1世は次男の将来の住居として、ケストリッツのフォン・ヴォルフラムスドルフ家の古い荘園をルネサンス様式の要素を含む宮殿群に改築させた。1704年に完成し、ハインリッヒ14世が領主となり、ロイス=ケストリッツ家の祖となった。この傍系は政府の権力はなかったが、大きな改革を行い、ヨーロッパの政治や軍事に有名な人物を輩出した。その中には、外交官や将軍、行政の長、さらには詩人や作曲家、芸術のパトロンも含まれていた。

しかし、ハインリッヒ 43世は、実際の収入以上の生活をし、支配した。このため、1812年に自己破産してしまった。カール・フリードリッヒ・シンケルが計画した魅力的な宮殿の新建築は実現しなかったが、シンケルの書庫で見ることができる。彼は美術品や希少品の広範で極めて貴重なコレクションを持っており、そのために特に宮殿に新しい建物を建てさせたのである。クラーナハ、ルーベンス、レンブラントなどの絵画、多数の地質学的展示品、珍品、貴重な宝石、コイン、磁器などである。結局、すべて競売にかけられたが、これらの美術品の多くは現在も行方がわからないままである。

1945年以降の宮殿群の改変、公園と町を通る新しい道路レイアウト、1972年の老朽化した主宮殿の取り壊し、かつての宮殿公園の深刻な変更により、現在では元の宮殿群は部分的にしか保存されていない。とはいえ、かつての姿を感じさせる老人ホーム、塔屋、側廊のアンサンブルは一見の価値がある。1990年代半ば、かつての本館跡地に、歴史的建造物を模した外観の「シュロスホテル」が建設された。長年の空き家を経て、2010年頃に老人ホーム「Pflege mit Herz」に改築されました。

ケストリッツの市民は、過去数世紀、ロイス家の前向きな統治に導かれ、多くのものを生み出してきた。現代において、小さな町の素晴らしい伝統を守ることは義務であり、名誉な仕事である。

★★★バート・ケストリッツ Bad Köstritz -6- に続きます

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