三十年前のドイツ(64):東独がまだ「DDR」だった頃のあちらこちら -6- Elbfähre

三十年前のドイツ(63):「まだ東独が「DDR」だった頃のあちらこちら -5- Lübz」からの続きです。

さて、今のメクレンブルクーフォアポメルン州にあたる場所からリューネブルクに帰るには、なんらかの方法でエルベ川を越える必要があります。西に走って Boizenburg-Lauenburgから西独に戻り、そこからエルベ川に架る橋を渡るのが簡単ですが、面白くありません(笑)。とはいえ、この時点ではまだ Dömitz-Dannenbergの橋はまだ修復されていません。ということで「渡し船 Fähre」にチャレンジしてみました。

エルベ川右岸(東独)Dömitz と左岸(西独)Dannenbergを結ぶフェリーです。この場所には、この1年後に道路橋が架けられます(破壊された橋が修復されます)

エルベ川が東西国境となっていた区間には、当時は橋が一本も架っていませんでした。統一前、東西の往来が自由になるとフェリーがあちこちに開設されました。エルベ川の上で「〇に=」印がフェリーの場所で、よく見ると6か所あります。今回の写真は赤い矢印の地点です。

一般にこの手の道路橋代わりのフェリーの料金は安いのが通例ですが(今どきなら€2とか)、この東西ドイツ間のフェリーは無料で利用できたように記憶しています・・・というかおカネを払った記憶がない(笑)勿論、西独サイドのどこかの財源から補助が出ていたものと思われます

船は至ってシンプルで、前後にゲートがあり岸に着くと開いて車を下ろし、待っていた車を乗せ、バックして対岸を目指す・・・この繰り返しです。時刻表も特になく、待っている車が増えてきたら船を出す・・・そんなユルい運航でした。それでも、東西の往来は活発になっていたので橋が出来るまではピストン輸送・・・手持無沙汰だった様子ではなかったです。

東側の船着き場に、改造バンや、車に牽かれた屋台の「移動Imbiss」が2軒出ています。
よ~く観ると・・・いくつかの定番アイテムで、左の看板のメニューの方が右のより「10ペニヒ安い」ことがわかります!東独ではこんなことはあり得なかったはずで(・・・まあ西でもこんなに露骨なのは滅多にないですが・・・)「自由競争」「市場経済」の現実に東独市民は面食らったかもしれません

エルベ川の中程から東を眺めると「壊れた鉄道橋」が見えます。かつての Dömitz(東独)-Dannenberg(西独)の間には道路橋と鉄道橋がありました。道路橋は修復され、エルベ川に架る数少ない橋として幹線道路となっていますが、鉄道橋は遂に修復・開通することなく今日に至っています。

こちらの記事も併せてお読みください

三十年前のドイツ:「東独がまだ「DDR」だった頃のあちらこちら」のシリーズは一旦終了します。

関連記事

ページ上部へ戻る