誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(43):★★★ミンデン Minden -7-

★★★ミンデン Minden -6- からの続きです

聖マルティニ教会からリッター通り(騎士通り Ritterstrasse)を南に St.Simeonis教会あたりまでぶらぶら歩いていきます。

↓↓ 地図はクリックすると拡大します。11月中旬の土曜日の昼下がり・・・天気はスッキリしませんが、まあ北ドイツってこんな感じなんですよね。

↓↓ 改めて St.Martiniを眺めてみると、煉瓦のサイズや不揃い具合、様式などからかなりの年代物という印象を受けます。

↓↓ こういう感じで家並みが見えますが、ここはミンデン博物館(Mindener Museum)で、「旧ミンデン修道院と現在のミンデン=リュベッケ地区の歴史、地域、民俗に関する幅広いコレクションを収蔵している。建物の大規模な再建を経て、100周年を記念して 2012年 10月に再オープンし、現在はミンデンの町の 1200年の歴史に関する展示と、特別展示用のエリアが設けられている。」というものです。(公式サイトはこちら

「1912年 9月 26日、ミンデン市議会は、さまざまなコレクションを統合するために、博物館の設立を決定した。博物館は、ミンデン旧市街の上部にある古い商人の家、いわゆるムゼウム・ツァイレ(Museumszeile)を利用している。リッター通り 23番地にある旧 Körber & Freytag書店を改装し、博物館を開設した。第一次世界大戦の影響で、建物の公開が遅れたのは1922年9月22日のことだった。1953年から 1959年にかけて、館長オットー・クルト・ラーグのもと、25号と 27号に隣接する 2軒の家が増築された。 これにより、ミンデン博物館はヴェーザー・ルネサンスの建築様式を代表する家並みの中にあることになった。」

↓↓ ↑↑ 「Alte Münze(古い硬貨)」という名称の建物で、中には同名のギリシャ料理レストランが入っています。「1260年頃に建てられ、ヴェストファーレンで最も古い石造りの家屋のひとつとされている。」「この建物から多くのコインが発見されたことから、ミンデンの造幣局であったと長い間考えられていた。しかし、現在では、硬貨を作るには流水が必要であったため、その可能性は低いと考えられている。したがって、14世紀から 16世紀にかけて造幣局長が住んでいた場所と推測される。」(独語 Wikipediaより)

↓↓ クリックするとスライドショーになります。

↓↓ Ritterstrasseから右手には Petrikirche (Minden)が見えます。また、左手の Sackgasse(袋小路)に入って右手には St.Simeonis教会が見えます。


Von A. Ludorff – Die Bau- und Kunstdenkmäler des Kreises Minden, Gemeinfrei, ソースはこちら

「聖シメオニス福音ルーテル教会(Simeoniskirche)は、ミンデン旧市街の南部に立つ教会堂である。その塔は、ミンデンの街並みを特徴づける建築物の一つである。カトリックの聖マウリティウス教会(St. Mauritius)と、キリスト教慈善修道会の修道院(Konvent der Schwestern der christlichen Liebe)がすぐ近くにある。1529年、ハインリッヒ・トラファーゲン(Heinrich Traphagen)がシメオニス教会で説教し、ミンデンでの宗教改革のきっかけとなった。2004年 Whitsun以降、聖シメオニス教会はプロテスタント教会であるヴェストファーレン教会の「開かれた教会」として、独自の小教区を持たない教会となった。」

「1214年 6月 1日、この教会は聖マルティニの子教会として奉献された。トリアーのシメオンからその名がついた。当初は単身廊の建物だったが、13世紀に北通路、14世紀に南通路が追加され、拡張された。」「シメオン教会の隣に聖モーリシャス修道院が移転したため、1434年から1475年まで教区教会と修道院教会の両方となった。」「1475年、聖シメオンの真横に聖マウリティウス新修道院教会が完成し、修道院教会の機能が聖マウリティウス修道院に戻されることになった。同時に、教区は世俗的な小教区からではなく、修道院から任命されるようになった。」

「1529年 9月、ここで説教をしたのは、またしてもベネディクト派の修道士であった。ハインリッヒ・トラファーゲンは、シメオン教会の説教壇から、マルティン・ルターの著作に影響を受けた説教を行った。修道院長のハインリヒ・ケッペレンは、この罪で彼を市の刑務所に入れた。しかし、これに激怒した市民たちは、夜中に密かにトラファーゲンを解放し、彼らの擁護者とした。トラファーゲンはミンデン市のプロテスタント市民によってデモ的に牧師に復帰し、1529年 10月 3日にシメオニ教会の説教壇に復帰した。そこから、聖マウリチウス修道院の修道院長と修道院を鋭く攻め立てた。その後、彼の聞き手たちは、修道院にある修道院長の公邸の窓に石を投げつけた。 市民に支えられて、宗教改革が始まり、市内の 3つの教区からそれぞれ 12人ずつ、36人の委員会が結成されることになった。1529年、聖マウリティウス修道院はリンテルンに避難したが、1552年に戻ってきた。1529年 12月には母教会である聖マルティニ教会がプロテスタントに変更された。」下の動画で、そのあたりの様子が語られています(約1分)

カトリックの「聖マウリティウス教会」と福音派の「聖シメオニス教会」が繋がっているという不思議な構造ですが、もともと両方カトリックだったものが、シメオニスはミンデンの宗教改革の核となったということですね。↓↓クリックするとスライドショーになります。

★★★ミンデン Minden -8- に続きます

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