誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(14):★★ゴータ Gotha -4-

誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(14):★★ゴータ Gotha -3- からの続きです。

Herzogliches Museum Gothaの向こう正面に見える Friedenstein城に向かいます。降雪で歩くのが結構きついです。

Wikipediaによると「英国のウィンザー朝(ウィンザーちょう)は、1917年に始まる現在のイギリスの王朝。サクス=コバーグ=ゴータ朝の後身。ハノーヴァー朝の後身と見なされることもある。」とあります。英国のヴィクトリア女王の結婚した Albert von Sachsen-Coburg und Gothaの家名を由来とする英国の王朝名ですが、第一次世界大戦で交戦していたドイツ帝国の領邦名を避けて居所のウインザーを王朝名として改名したものです。

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ウィンザー家(House of Windsor)の元の家名(王朝名)はサクス=コバーグ=ゴータ家(House of Saxe-Coburg-Gotha)といった。これはヴィクトリア女王の夫(王配アルバートの家名(その英語形)であった。アルバートはドイツザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の息子であったが、この家系からはベルギーブルガリアポルトガルの王家も出ている。

第一次世界大戦中の1917年ジョージ5世は敵国ドイツ領邦であるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠された家名を避け、王宮のあるウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称し、かつ、王家は姓を用いないとの先例を覆してウィンザーを同家の姓としても定めた。そのため、1917年以降は現在の女王エリザベス2世にいたるまでをウィンザー朝と称し、かつ、その構成員(ジョージ5世の直系および存命の叔父コノート公アーサーの系統)は(必要がある場合には)ウィンザーの姓を用いる。ただし、ヴィクトリア女王の血統が断絶したわけではないので、いずれもハノーヴァー朝の継続と見なされることがある。ハノーヴァー朝以来代々の王位継承者の配偶者はドイツ人やドイツ系の王族が迎えられることが多かったが、エドワード8世がアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚問題から退位し、代わって王位に就いたジョージ6世の妃エリザベスグレートブリテン王国成立以降で初の同国出身の王妃となった。現王太子チャールズの元の妃ダイアナ、現在の妃カミラもまた同国出身である。

なお、1960年にエリザベス2世と夫フィリップ・マウントバッテン(Philip Mountbatten)公の間に生まれる子の姓をマウントバッテン=ウィンザー(Mountbatten-Windsor)とする枢密院令が発せられた。もっとも、家名(王朝名)が変更されたわけではないため、現状を前提とすればチャールズ王太子が即位してもその家名(王朝名)はウィンザーのままであり、姓のマウントバッテン=ウィンザーとはずれが生じることとなる[1]

なお Albert von Sachsen-Coburg und Gothaに関してはドイツ語 Wikipediaと並んで、日本語 Wikipediaにも詳しい解説があります。これを読むとヨーロッパ諸国の王室の関係(とその複雑さ)は俄かには理解できなくとも、感じることができます。

歴代のこの城の主のひとり August (Sachsen-Gotha-Altenburg)は、熱烈なナポレオンの信奉者だったこともあり、ナポレオンはここを何度か訪問したことがあります。これは、ナポレオンを泊めるために作った部屋とベッドとされていますが、実際に泊まった記録は無いようです。

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今回は「ドイツ帝国(Deutsches Reich)の構成国のひとつとしての Herzogtum Sachen-Coburg und Gothaの首都の Gothaを紹介していますが、その前には、前にご紹介した Altenburgと同君連合で Herzogtum Sachsen-Gotha-Altenburgだった時代があります(1672年から 1826年まで)。Augustはその最後から2代目の君主でした。以下 Wikipediaの DeepL翻訳です

アウグストはザクセン=ゴータ=アルテンブルク公エルンスト2世とザクセン=マイニンゲン公シャルロットの次男である。兄のエルンスト(1770-1779)の夭逝により世襲王子となった。青年期には優れた教育を受け、フランスのジャコビンクラブの思想に共鳴し「自由、平等、博愛」という新しい理想を身につけた。

1804年に公爵に就任したときには、すでにナポレオンを熱烈に崇拝していたと考えられており、それがナポレオン戦争での彼と国の利益になっていた。1806年、ザクセン=ゴータ=アルテンブルクはライン盟約者団に加盟した。この年のフランス軍の侵攻の間に 8月はゴータに滞在し、ありうべき戦争のエスカレーションを防ぐことができた。また、投獄された批判的ジャーナリストのルドルフ・ザカリアス・ベッカーのために立ち上がり、軍司令官からの即時釈放を得た。


ナポレオン・ボナパルトは、アウグストへの手紙の冒頭をいつもいとこ(私のいとこ)と書き出し、最後をいとこ(あなたのいとこ)として締めくくっていた。彼の尊敬の証として何度かゴータの公爵を訪れたが、フリーデンシュタインに一泊したことはなかった(ゴータの伝説Das Bett als Sarg[1][2]が報告しているように)。1807年 7月 23日(宮殿でのレセプション、公爵夫妻との昼食)、1808 年 9月 27日(エアフルト王子会議に向かう途中、アウグスト公爵との会話、宮殿での夕食)、1808年 9月 14日(エアフルト王子会議に向かう途中、アウグスト公爵との会話、宮殿での夕食)、1808年 9月 14日(エアフルト王子会議に向かう途中、アウグスト公爵との会話、宮殿での夕食)が記録されている。他に 1808年 10月 14日(プリンシパル会議の帰り道、フリードリヒシュタール宮殿に立ち寄り、アウグストと簡単な会話)、1812年 12月 15日(ロシアからの帰り道、アウグストとの出会いなし)、1813年 10月 25日(ザクセンからの帰り道、ガストフ・ツム・モーレンに一泊、アウグストとの出会いなし)、1813年 10月 25日(ザクセンからの帰り道、Gasthof zum Mohrenに一泊、アウグストとの出会いなし・・・という記録が残っている。

1811年から 1813年にかけて、公爵は毎年 8月 15日にフリーデンシュタイン城でナポレオン・ボナパルトの誕生日を祝った。1807年には、ナポレオンの付き人であったルイ・コンスタント・ワイリーから皇帝の帽子を譲り受けていたが、それは現在もフリーデンシュタインに展示されていす。1807年 7月 23日のナポレオンの訪問中、アウグストは贅沢な黒い馬車をフランス皇帝に譲渡したが、ナポレオンは頭蓋骨に似ているという理由で使用を拒否した(それが現在の頭蓋骨の馬車の名前の由来)。8月のナポレオンマニアは、フリーデンシュタイン宮殿のエンパイアスタイルのナポレオン・ルームを彼自身が設計し、調度したことで最高潮に達し、今日でも博物館のハイライトとなっている。部屋の天井には太陽と月が描かれており、太陽はナポレオンの特徴を冠し、月は八月の顔をした星空が描かれている。

城の西棟(屋根が直線的な形状の方)に Ekhoftheaterと呼ばれる、手動の舞台装置を備えた劇場があります。Wikipediaによると「エクホフシアターは、17世紀の舞台装置が機能している最古のバロック劇場のひとつで、現在でも手動で操作されています。 ゴータのフリーデンシュタイン城の西塔にあります。」とあります。

城の裏手は緩やかな傾斜があり旧市街へと下っていく道があります。向こうに見える赤い建物は Rathausですが、この日は雪のためここで切り上げホテルに戻りました。

誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(14):★★ゴータ Gotha -5- に続きます。

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