誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(43):★★★ミンデン Minden -6-

★★★ミンデン Minden -5- からの続きです

Marktから Obermarktstarsseを南東に歩くと Opferstrasse(犠牲者通り・生贄通り)という何やら謂れのありそうな通りがあり、その緩い坂を上って北の方角に行くとメインのとは別のマルクトがあります。これが Obermarktなのかな?そこにはかつてのプロイセン軍の食糧庫と聖マルティニ教会があります。

↓↓ 地図はクリックすると拡大します。


プロビアント・マガジン(Priviant Magazin 備蓄倉庫?)は、1835年から 1836年にかけてミンデン要塞の一部として建てられたネオロマネスク様式の 4階建ての建物である。旧市街の上部の乾いた場所に位置し、プロイセン軍がミンデン要塞に駐留するための食糧を確保するため、食糧庫に隣接する陸軍パン工場とともに食糧庫として機能した。第二次世界大戦中のミンデンの最後の戦いで、ヴェーザーの左岸を放棄したドイツ軍によって放火され焼けてしまって、30年間は廃墟だった。1975年からはヴェーザー・コレグ(Weser-Kolleg)という学校が入っている。(独語 Wikipediaより)

マルクトはつい覗いてしまいますねえ(笑)↓↓クリックするとスライドショーになります。

右手に写っているのは St. Martini (Minden)です。

「聖マルティーニ教会は、ミンデンの旧市街地の中心、旧市街地テラス上部の端に建つ教会堂であるため、ミンデンの町のシルエットを特徴づけている。1810年に解散したばかりの聖マルティニ修道院に属していた。

この教会は 1029年の少し前に設立され、ロマネスクとゴシック様式で建てられている。1530年、宗教改革の流れの中で、福音ルーテル派となった。ここでニコラウス・クラージュは、彼が書いたウェストファーレンで最初のプロテスタント教会令を読み上げた。教会堂はミンデン市のリストアップされた建物に登録された。」

↓↓ これは Johann Sobbeというミンデンの市長を務めた人物のファミリーを描いたもののようです。

「ヨハン・ソッベ市長とその家族の墓碑銘を絵画の形にしたもの。木に油絵。ソッベ家 4代が描かれている。下部には、ヨハン・ソッベとその妻アンナ・ショルヴォエが、Aという銘のあるパネルの左右に跪いており、その上に左右 4列に、彼らの多数の子孫が並んでいる(配置は解説を参照のこと)。すべての人物がひざまづいて祈る姿が描かれている。上の背景には、建物のある風景が見えます。上空には雲と多数の天使の頭に囲まれた太陽円盤があり、その中にテトラグラム(B)、その下にCと書かれた帯状の文字が描かれている。」

出典はこちらですが・・・しかし、調べる気になれば相当量の情報がネットで得られる時代ですね!

★★★ミンデン Minden -7- に続きます

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