誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(17):★★アルンシュタット Arnstadt -3-

★★アルンシュタット -2- からの続きです

アルンシュタットの旧市街を、バッハ教会を起点に反時計回りに歩きます。マルクトを過ぎたあたりでちょっとコースを外れたように北北西に Rosen Strasseを少し進むと一軒の廃墟に行き当たります。どうにも素通りできず、今回はそれを深掘りしてみます。(地図はクリックすると拡大します。)


Rosen Strasseにかなり目立つ、廃墟寸前の建物があります。Zu verkaufenとあるところから「売物件」と思われます。購入したとしてもリノベーションにかなりの費用がかかると想像され、簡単に売れるものかどうかは疑問はあります。しかしこれ以上放置すると更に傷んで修復不能になる恐れもあり・・・不動産会社の管理下のようなので、最低限のメンテをしていてくれるといいのですが・・・。あるいは隣の建物はリノベーションしている最中のようで、これも次のリノベーション対象なのでしょうか?

M.BACHSTEINという屋号があり、また壁には一見風化して薄くなり読みづらいですが、データ加工をしてみると「gegr.1860(1860年創業)」「Grosses Lager(大店舗)」「Herden u. Oefen(竈とオーブン(ストーブ))」「Ofenbau-Artikel(オーブン制作用アイテム)」「kupf.Waschkessel(銅製の洗濯用ボイラー?)」などの文字が見えます。家屋に作り付けの竈やストーブ、暖房設備などを作ったり、ボイラーなどの金属製品を製作する職人の店だったようです。

Bachstein Arnstadt」で検索してみると、なんと「704年から 2004年のアルンシュタットの年代記」を書いている人がいるようで、そのデータにヒットしました。

アルンシュタットは(ローマ人が建設した都市を除くと)ドイツで最も古くからその存在が文書によって確認されている町のひとつですが、704年と言えば・・・日本でいえば「和同開珎 708年」「平城京遷都 710年」というような時代です!

まず、1,000ページを超えるその年代記に登場する「Bachstein」姓の人物は下の5人のようです。こういう「索引を付ける」というのは論文などでは必須ですが、こんな年代記にもちゃんと付いていて、pdf文書でもキーワード検索ができるというのがいかにもドイツです。

その年代記から断片を拾うと:

Bachstein, J. Gottlieb : Kupferschmiedemeister in der Rosengasse
J. Gottlieb Bachstein schrieb Tagebuch (1763 – 1792), veröffentlicht im 11. Alt-Arnstadtheft
Rosengasseの同細工師マイスターの J. Gottlieb Bachsteinが 1763-1792年に日記をつけていた・・・という記述があります。

Belobung 1825 : Die Gemeinde Linderbach, im Bezirk des Großherzoglisch Sächsischen Justizamtes Vieselbach, hält sich verpflichtet, hierdurch öffentlich ihre Zufriedenheit über die Schlauch- und Rohrspritze auszusprechen, welche ihr von dem Kupferschmidt- und Rothgießermeister Herrn Bachstein zu Arnstadt im vorigen Jahre verfertigt wurde. Sie bemerkt dabei, daß das Werk bei der, von den Behörden, unter Zuziehung von Sachverständigen, Statt gehabten Besichtigungen, nicht nur ohne Tadel und ausgezeichnet gut gefertigt, sonder auch preißwürdig befunden worden ist, und daher der Verfertiger mit Recht jeder Gemeinde empfohlen werden kann. Linderbach, den 22. April 1825. Das Dorfgericht. Heinrich Peter, Amtsschultheiß
表彰 1825:ザクセン大公国フィーゼルバッハ司法管轄区域にあるリンダーバッハ地区当局は、昨年、アルンシュタットの銅細工の名匠で鋳物職人でもあるバッハシュタイン氏によって製造されたホースとパイプの噴霧器に満足していることを、ここに公に表明する義務を負う。リンダーバッハ地区当局は、専門家の協力を得て当局が実施する検査を行い、非の打ち所がないだけでなく、賞賛に値することがわかり、従って、この製造者はどの自治体にも推奨することができると認識した。1825年 4月 22日 村裁判所 ハインリッヒ・ペーター 保安官

1853 Bachstein, … (Kupferschmiedemeister und Spritzenfabrikant); nach Amerika
Familie Bachstein wohnte 1853 in der Kleinen Rosengasse Nr. 482, die spätere Nr. 1.
1853 Bachstein、…(銅細工師および噴射機製造職人); アメリカへ
バッハシュタイン家はクラインローゼンガッセ第482号、後に第1号に住んでいた。

Einrichtung einer städtischen Müllabfuhr
Nach langer Debatte am 26.6.1906 beschloß der Gemeinderat Arnstadt eine „städtische Müllabfuhr“ nach dem in Karlsbad eingeführten System „Salubriter“ auch für Arnstadt ins Auge zu fassen. Dieses System bestand aus geschlossenen Wagen mit dazu passenden Aufbewahrungsbehältern, deren Entleerung staubfrei in die Wagen erfolgte.
Der Beschluß sah den Ankauf 2 solcher Wagen zum Preis von 3200 Mark vor.
Die Anschaffung der Aufbewahrungsbehälter war Sache der Hausbesitzer.
Am 1.10.1906 sollte dann erstmalig eine geordnete Müllabfuhr beginnen. Bis zu diesem Zeitpunkt bestand in Arnstadt nur eine „primitive Abfuhr“ des Hausmülls.
Zur Gebührenberechnung wurden von Seiten der Stadt die Mietwerte sämtlicher Häuser ermittelt. Nach deren Höhe richtete sich die Höhe der zu zahlenden Müllgebühren. Und zwar:
Für jede Haushaltung, deren Wohnung einen Mietwert hatte von vierteljährlich (alle Angaben in Mark):
unter 100 = 0,50
100 – 300 = 0,75
300 – 500 = 1,00
500 – 800 = 1,50
über 800 = 2,00
Man veröffentlichte eigens dafür am 9.8.1906 ein „Ortsgesetz über die Abfuhr des Hausmülls“.
Die Gestellung der Pferde nebst Geschirrführern für die Müllabfuhr wurde im „Unterbietungsverfahren“ vergeben.
Die vorschriftsmäßigen Müllgefäße waren bei Nicol Schnell, Ried Nr. 13 und bei M. Bachstein, Rosenstraße 2 zu haben. Die Preise dafür waren:
90-Liter-Gefäß = 12,50 Mark
120-Liter-Gefaß = 15,00 Mark
Da die Wagen nicht früher geliefert werden konnten, wurde die städtische Müllabfuhr nicht wie vorgesehen am 1.10.1906 „in Betrieb gesetzt“. Der Termin wurde verschoben auf den 15.11., dann auf den 1.12.1906, und schließlich konnte am 1.1.1907 begonnen werden.
Vorläufig nicht entsorgt wurden folgende Straßen:
Mühlweg, Rehestädter Weg, Angelhäuser Gasse, Neuer Friedhof, Hammerecke, Am Rabenhold, Alteburg, An der Eremitage, Am Fürstenberge, Hopfengrund, Eichfelderweg 16 – 25,Jonastal, Langegasse, Schönbrunn.
地方自治体のゴミ処理場の設立
1906年6月26日の長い議論の末、アルンシュタット市議会は、カールスバードで導入された「サルブリター」システムに基づく「市のゴミ収集」アルンシュタットにも導入することを検討する決定した。このシステムは、ワゴンと一致する貯蔵容器を備えた密閉型ワゴンで構成されており、ワゴンの中で埃を出さずに空にすることができた。
決議は、3,200マークの価格でそのような車を 2台購入するために提供された。
貯蔵容器の購入は住宅所有者の負担であった。

1906年 10月 1日、整然としたゴミ収集が初めて開始された。この時点まで、アルンシュタットには家庭廃棄物の「原始的な収集」しかなかった。料金を計算するために、市はすべての家の賃貸価値を決定した。支払われるごみ料金の金額は、その金額に基づいていた。実際には:
アパートの賃貸価値が四半期ごとであるすべての世帯(すべての情報はマルクで):
100未満= 0.50
100-300 = 0.75
300-500 = 1.00
500-800 = 1.50
800以上= 2.00
「家庭廃棄物の除去に関する地方法」は、1906年 8月 9日にこの目的のために特別に発行された。
ゴミ収集のための馬と馬具の運転手の提供は、「不足入札手続き」で落札された。
所定のゴミ箱は、Nicol Schnell、Ried No. 13、およびM. Bachstein、Rosenstrasse 2から入手できた。これの価格は次のとおり。
90リットルの容器= 12.50マルク
120リットルの容器= 15.00マルク
ワゴンが早く納車できなかったため、1906年 10月 1日に予定されていた地方自治体のゴミ処理は「稼働」できなかった。日付は 11月 15日から 1906年 12月 1日まで延期され、ついに 1907年 1月 1日から開始が可能となった。
次の道路はまだ処分されていません。
Mühlweg、RehestädterWeg、AngelhäuserGasse、Neuer Friedhof、Hammerecke、Am Rabenhold、Alteburg、An der Hermitage、AmFürstenberge、Hopfengrund、Eichfelderweg 16-25、Jonastal、Langegasse、Schönbrunn。

Am 20.11.1945 höchstwahrscheinlich wegen seiner Parteizugehörigkeit zur NSDAP wurde der Kaufmann Carl Bachstein inhaftiert und in ein Sammellager gebracht. Seine Familie hat nie wieder etwas von ihm gehört. Er soll im Lager Buchenwald gestorben sein.
1945年 11月 20日、おそらく NSDAPの党員であったため、商人の Carl Bachsteinが逮捕され、収容所に連行された。彼の家族はその後二度と彼の消息を聞くことは無かった。 彼はブッヘンヴァルト収容所で亡くなったと言われている。

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たまたま見かけた廃墟・・・そこに書かれていた文字情報から、そこに住んでいた「Bachstein」という家族の歴史の断片を拾ってみました。ずっとこの町のこの通りに暮らしていた金属細工を生業とする家族・・・M.Bachstein氏…Michaelでしょうか、Manfredでしょうか…は役所から認められるほどの腕のいい職人で、店を持ち、多分その息子か孫の Carlはナチ党員であったということで、終戦後ソビエト占領地域となったこの地で逮捕され、ブッヘンヴァルト収容所に送られ獄死(まだ東独は成立する前)・・・しかし、店舗はいまだ屋号が残っているということは、旧東独の厳しい経済環境の中で家族によって経営が続けられ・・・東西ドイツ統一後、どこかのタイミングで力尽きて廃業した・・・そんな歴史が浮かび上がってきます。

そして、そんなファミリー・ヒストリーをテーマにして、バッハが居たことを絡めて、カフェとかホテルにしてなんとか復活できないものか?エアフルトに近いことだし・・・というそこはかとない妄想が湧いてくるのです。(笑)・・・あ、ここ笑うところじゃないなあ・・・

★★アルンシュタット -4- に続きます

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