誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(41):★★★ビュッケブルク Bückeburg -6-

★★★ビュッケブルク Bückeburg -5- からの続きです

この町や、近隣の地域の古い建物は一種独特な建築様式であることに気づきます。ヴェーザー・ルネサンス Weserrenaissanceと呼ばれる様式で、ヴェーザー川流域に広まったものです。これについて調べてみます。

独語 Wipipediaによると「ヴェーザー・ルネッサンスと呼ばれる建築様式は、ドイツ北部にみられるルネッサンスの地域的な変種である。宗教改革の始まりから三十年戦争までの間、ヴェーザー地方は建築ブームに沸いた。その際、商品やアイデアの輸送ルートとして重要な役割を果たしたヴェーザー川は、文化圏の南北の延長を定義するだけで、西はオスナブリュックまで伸び、東はヴォルフスブルクを越えて伸びている。三十年戦争の影響から経済的に立ち直りが遅れ、南ドイツのようなバロック様式への転換を図る資金がなかったため、城や貴族の館、町民の館、ルネサンス期の聖殿などが異常に高い密度で保存されている。ヴェーザー・ルネッサンスは、ヴェーザー・バロックに引き継がれた。」とのことです。

ドイツの河川といえば、ライン川・ドナウ川・エルベ川が知名度の高いトップ3で、次いでワインの産地であるモーゼル川・マイン川あたりが続き、それらと比べるとヴェーザー川の知名度は今ひとつかもしれません。が、ライン川とエルベ川の真ん中あたりをほぼ南北に流れるこの川は、古くから水運で重要な機能を果たし、その流域に独特な建築様式が展開したということのようです。

ヴェーザー川(ヴェーザーがわ、ドイツ語Weser低ザクセン語Werser)は、ドイツ中部の中低山地から北ドイツ低地へ北に向かって流れる川である。ヴェーザー川の名前で呼ばれるのは、その主要な源流であるヴェラ川フルダ川とが合流するハン・ミュンデン以降である。河口はブレーマーハーフェン付近で、北海に注ぐ。

ヴェーザー川は、その全長が連邦水路となっており[1]ヘッセン州ノルトライン=ヴェストファーレン州ニーダーザクセン州ブレーメン州がこれに面している。ヴェーザー川の流域の一部は、これらの州の他にテューリンゲン州ザクセン=アンハルト州に及んでいる。

Von NordNordWest – Eigenes Werk mittels:GTOPO-30 Elevation Data by USGS, CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

Weser
ヴェーザー川

↓↓ ヴェーザールネサンスの紹介動画(約9分)

↓↓ ヴェーザールネサンス建築の紹介動画(約4分半)

「ヴェーザールネサンスという言葉は、1912年頃にリチャード・クラペックによって作られたもので、ヴェーザー川沿いのルネサンスが、独自の様式的発展を遂げていることを示唆するものであった。1918年、マックス・ゾンネンが著書『ヴェーザールネッサンス』で取り上げた新語は、建築物をその起源となる歴史的経緯にとらわれず、純粋に形式的側面によって分類し、様式の発展史を導き出すというものだった。自律的な文化現象という意味での地方ルネサンスという考え方は、19世紀後半以降のナショナリズム思想に基づいており、そこでも地方はアイデンティティ形成の要素として位置づけられていた(ドイツ特殊ゴシック Deutsche Sondergotik、ラインまたはザクセンロマネスク Rheinische oder Sächsische Romanikを参照)。

発展の歴史

中世の城が宮殿に変貌するのは、16世紀の貴族の建築活動の特徴であり、当初は両翼の複合建築が建設された。16世紀に入ると、中庭の隅に階段塔を配し、翼を張り合わせた閉鎖的な複合建築がヴェーザー地方の荘園領主に好まれるようになり、やがて下級貴族にも取り入れられるようになった。特に、中高ドイツ語の「twerh(横)」と呼ばれるヴェルシュ(ヴェルシュ=イタリア語)破風を持つ特徴的な住宅は、デトモルト、ツェレ、ビュッケブルクのような高い城壁に囲まれた城では、遠くからでも見ることができ、統治者の象徴として最適であった。4翼式城郭のほか、3翼式城郭もあり、ヴェーヴェルスブルクのように幾何学的に厳密に閉じているものもあれば、シュヴェーバーのように農園に向かって開いているものもあった。また、ヴェーザー川沿いの城郭建築には、両翼の建物や片翼の建物もレパートリーとして含まれている。

ツェレ城CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

下級貴族だけでなく、ブルジョワの施主たちも、自分たちの社会的影響力を示すために、この新しい形式を利用したのである。ツェレやレムゴーのような市庁舎は、軒下の切妻やスタンダーコア(Aus-または Utluchtenとも呼ばれる)を備え、時にはブレーメンのように完全なルネサンス様式のファサードが作られたこともあった。ニーンブルク、ミンデン、ハーメルン、ヘクスター、ハノーバーシュ・ミュンデン、アインベックなどでは、大きな開口部を持つ扉が特徴的な豪華なタウンハウスが建設された。

ツェレの市庁舎: Von Photographer and uploader was Hajotthu at de.wikipedia – Selbst fotografiert, Gemeinfrei, ソースはこちら

教会建築も、新たな建築的ソリューションが求められていた。説教壇の位置と、その真向かいに配置された教壇は、言葉の中心的な重要性をインテリアデザインにも表わしている。ツェレやビュッケブルクの城の礼拝堂、ヴォルフェンビュッテルやビュッケブルクの重要な町の教会などは、このような印象的な配置の例である。ヴェーザー地方のプロテスタント美術は、シャウムブルク公エルンストの時代に最高潮に達し、17世紀初頭にはシュタットハーゲン廟とアドリアン・デ・フリースが制作したフィレンツェ・ルネッサンスを思わせる墓が作られた。同じ頃、金細工師アントニウス・アイゼンホイトは、カトリックのディートリッヒ・フォン・フュルステンベルク大司教の祭壇装飾を、彫刻家ハインリッヒ・グレーニンガーは、パーダーボルン大聖堂の記念すべき墓を制作している。(独語 Wikipedia)

パーダーボルン大聖堂: Von Zefram – Selbst fotografiert, CC BY 2.0 de, ソースはこちら

こちらに事例写真が沢山あります

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