- 2024-3-31
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Kirchplatzの西側、1ブロック離れたところにもう一つ細長い広場があります。Schinkelplatzで、ここにはあのカール・フリードリッヒ・シンケルの手による Louisendenkmal(プロイセン王妃ルイーゼを顕彰する碑)があります。この小さな町の宝物と言っていいでしょう。
「メクレンブルク=シュトレリッツ家のルイーゼは、1810年 7月 19日にホーエンツィエリッツ城で 34歳で死去し、シャルロッテンブルクに埋葬されることになった。国民に愛されていたルイーゼ王妃の移送には、大勢の国民が葬列に押しかけた。
1810年 7月 25日から 26日にかけての夜、ルイーゼ王妃の棺は当時のグランゼーの市場広場(現在のシンケル広場)に安置され、市民の大きな歓声に包まれた。その直後、グランゼーの市民はフリードリヒ・ヴィルヘルム 3世に、この記念すべき出来事を記念するモニュメントを建てる許可を求めた。
国王はこれに同意したが、公費は支給されなかった。ルッピン地区の行政官であったフリードリヒ・クリスチャン・ルートヴィヒ・エミル・フォン・ツィーテンの指導の下、募金運動が始まり、2,000ターラーを集めることに成功した。
ツィーテンはベルリンの王立プロイセン鉄鋳造所にコネがあり、それがシンケルと接触させたと思われる。シンケルが提出した鋳鉄製の記念碑の設計は国王の承認を受け、1811年 10月 19日に落成式が行われた」(独語 Wikipedia)
まあ、ノイシュトレーリッツとベルリンを繋ぐ道路のほぼ真ん中あたりにあるので、ルイーゼの柩を乗せた馬車が途中で一泊するとすればここだったのでしょう。国民から愛された王妃の柩がこの町で一泊することになった時の、この町の熱狂が目に浮かぶようです。
この、シンケルの手による慰霊碑は「この記念碑は、時代を超えて人々の間で大きな人気を博し、常に維持されてきた。基本的に、シンケルの作品は 1810年からの歴史的状況を再現しただけであり、かなり単純なアイデアである。しかし、このアンサンブルで重要なのは、彫刻を施した巨石で組まれた花崗岩の台座でも、レプリカの棺でも、鋳鉄製の王冠でもなく、むしろ極めて繊細なゴシック様式の天蓋であり、中世の聖遺物箱の輪郭を彷彿とさせ、死んだ女王の記憶の表現となっている。鉄は、プロイセンのナポレオン・ボナパルトとの戦いにおける王妃の強さと愛国心を象徴しており、一方、フィリグリー細工のフォルムは、王妃の繊細さと純粋さを思い起こさせる。
このように、シンケルの記念碑はその超越性において天才的な作品であり、追悼されるべき人物を巨大な石棺の閉塞感から天蓋の風通しの良い高さへと昇華させた」という評価を受けています。
カール・フリードリッヒ・シンケル(Karl Friedrich Schinkel, * 1781年 3月 13日ノイルッピン生まれ、† 1841年 10月 9日ベルリン生まれ)は、プロイセンの建築行政官、建築家、都市計画家、記念碑保存家、画家、グラフィック・アーティスト、メダリスト、舞台美術家であり、古典主義と歴史主義の形成に決定的な役割を果たした。オーバービューデピュテーションの責任者として、プロイセン王国のほとんどすべての国家建築プロジェクトを経済的、機能的、美的観点から精査する建築行政を担当した。シンケルは国王の最高建築責任者であり、建築家でもあった。彼の建築物は、今日でもベルリン中心部などの街並みを特徴づけている。
彼の影響を受けた数世代の建築家たちからなる「シンケル派」は、彼の名にちなんで名づけられた。彼の主な作品には、ポツダムのニコライ教会、フリードリッヒスヴェルダーシュ教会、ノイエ・ヴァッヘ、劇場シャウシュピールハウス、ベルリンのアルテ美術館など、歴史的に重要な聖俗建築や、ベルリン貿易学院、シンケル建築アカデミーなど、建築的に革命的な建築がある。建築技術、空間コンセプト、デザインの面で、シンケルのいくつかの作品は、建築におけるモダニズムの先駆者とみなされている。(独語 Wikipedia)
次章で詳しく書こうと思いますが「ハインリヒ・テオドール・フォンターネ(* 1819年12月30日ノイルッピン生まれ、† 1898年9月20日ベルリン生まれ)はドイツの作家、ジャーナリスト、批評家。リアリズムの重要な代表者とされる」という作家が、ブランデンブルクの紀行文「Wanderungen durch die Mark Brandenburg」の中で、グランゼーのこの慰霊碑のことを書いています。
・・・この記念碑は、1811年 10月 19日、当時 10歳だったプロイセンのカール王子の面前で除幕された。その後、国王はノイシュトレリッツ訪問の際にグランゼーを通過するたびに、馬車をこの場所に停車させた。1860年7月19日の夜、この偉大な女性の50回目の命日に、この記念碑で、松明と鐘の音による典礼礼拝が行われた。町の人々だけでなく、地区の人々も大勢参列した。
そして、グランゼーがこの記念碑によって自らを称えたように、それ以来、その名は、この女王の光り輝く愛すべき姿に遅かれ早かれ関係するすべてのものが受ける、詩的な輝きで輝き続けている。現代の歴史には、純粋さ、華麗さ、非の打ちどころのない寛容さについて、これと同じような例を見ることはできない。一方、ルイーゼ王妃は、人生に影を落とすことなく、人生のただ中に立っていた。誹謗中傷は確かに彼女に手を伸ばそうとしたが、邪悪な息は長い間鏡を曇らせることはできなかった。彼女は、彼女を讃える人々の言い回しよりも、敵の中傷に苦しんだ。彼女は「祖国の不幸」によって死んだのではない。個人の感情の道筋を決めつけようとする誇張は、矛盾を引き起こすだけだ。
グランゼーのルイサの記念碑は正しいバランスを保っている。自分自身と町のことだけを語り、純粋に個人的な悲しみを表現している。だからこそ感動的なのだ」
町の入り口で出会った同年代の「老人」に尋ねた・・・「アレって、ここを真直ぐに行けばいいんだよね?」「そう、小さい町だからすぐにわかるよ」・・・そのアレって、コレだったんですよ!あの爺さん、なんか誇らしげだったよなあ!ルイーゼは今でも愛されてるんだなあ・・・