三十年前のドイツ(8):東西ドイツ国境の画像 -その5- Zicherie-Böckwitz

Zicherieは私の住んでいたリューネブルクから南南東に約90km、車で約一時間半のところにある、人口300人程度の国境の集落です。戦前は隣の集落 Böckwitzと実質的に一体をなしており、親戚も多く、Zicherieの子供が Böckwitzの学校に通ったり、Böckwitzの住人が Zicherieのサッカークラブでプレーしたりと、実質的に一体化していました。

が、 Böckwitzはソ連占領地区となり、徐々に相互の行き来が難しくなり、1952年5月に板塀で分割されました。その後、仮の板塀は本格的な国境封鎖施設に置き換わり「双子状態」だった二つの集落は完全に分割され、さながらベルリンのミニ版的な位置づけとなったのです。

Ost-West Grenze Zicherie.jpg
Von Glasbakje64Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link

上の写真と監視塔の形が変わり、町の境を示す看板が異なっていることに気が付きます

東京から元職場の同僚たちがドイツに観光旅行に来た時の写真ですが、こんな時でも国境に案内し「どうだ、凄いだろう、日本にはこんなもん無いだろう?」とやっていました(笑)

この町名の看板、通常なら道の延長線上にある「次の町の名前」が記入されている筈ですが、国境で遮られたため空欄になっています。しかし、これがもうすぐまた書き換えられることになるのです。

(看板から...)

今あなたは1945年までは一つのまとまりだった双子村のボックヴィッツ・ツィヒェリーの真ん中に居る。

1945年7月1日ソ連軍はボックヴィッツ地区を占領した。ツィヒェリーの住民は学校、乳製品工場、殆ど全ての町工場を失い、親戚や知人との連絡を断たれた。

1952年5月、この双子村は長さ300m、高さ3mの板塀で分割されました。ボックヴィッツ側の住民(大半は農民)はザクセン地方に強制移住させられた。しかしほぼ全員がそこから逃げ、今はその大半がこのツィヒェリーに住んでヴォルフスブルグのフォルクスワーゲン工場に勤めている。

(中略)

1961年10月12日ここから南に3Kmの所でドルトムントのジャーナリストであったリヒテンシュタイン氏が射殺された。かれは一人のドイツ人としてドイツ人同胞に話しかけようとしただけだったのに...

Deutschland ist unteilbar
ドイツは分割できない

1958, am Vortag des fünften Jahrestages des Aufstands vom 17. Juni 1953, wurde in Zicherie ein Findling mit der Aufschrift „Deutschland ist unteilbar“ aufgestellt.

Das Kuratorium Unteilbares Deutschland errichtete ein „Zonenrandhaus“.

Am 17. Juni 1959 versammelten sich Tausende Menschen in Zicherie, um auf die Unmenschlichkeit der Grenze aufmerksam zu machen.[5] (Wikipediaより)

三十年前のドイツ(9):東西ドイツ国境の画像-その6- Harz(ハルツ)に続きます

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