誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(78)★★★ ラーテノウ Rathenow -2-

★★★ ラーテノウ Rathenow -1- からの続きです

ラーテノウの駅前にはなにかモニュメントがあります。ここにも戦没ソ連兵士の慰霊碑か・・・と思ったらちょっと違うようです。

「ヨハン・ハインリヒ・アウグスト・ドゥンカーは、ドイツの光学産業の創始者とみなされている。彼はハレで神学を学んだが、そこで光学の理論的知識とガラス研磨の実践的技術を習得した。ラーテノーに戻った後、彼は当初は顕微鏡の製造に重点的に取り組んだ。その後、眼鏡、拡大鏡、補聴器、劇場用メガネの製造も手がけた。

1801年3月10日には、プロイセン王から光学産業研究所を運営する特権を授与され、彼が開発した多機能研磨機は特許を取得した。これにより、ドイツで初めて光学製品が工業規模で製造されることになった。ドゥンカーの子孫であるエドゥアルト・ドゥンカーとエミール・ブッシュは、会社を成功裏に経営し続け、「光学の街」としてラートノーの国際的な名声を確立する発展のきっかけを作った」・・・とあります。

ヨハン・ハインリヒ・アウグスト・ドゥンカー

ヨハン・ハインリヒ・アウグスト・ドゥンカー(1767年1月14日ラーテノウ生まれ、1843年6月同地没、愛称:アウグスト)は、ドイツの光学産業家である。

牧師の息子であったアウグスト・ドゥンカーは、1786年にハレ神学の研究を開始した。3年後の1789年、彼は研究を修了し、ラーテノウに戻った。そこで彼は牧師館で顕微鏡ガラス製品を製造し、1790年頃から販売を始めた。

1801年3月10日、駐屯地の牧師サミュエル・クリストフ・ヴァゲナーとともに、後のラートノー光学工場(ROW)となる Königlich privilegierte optische Industrie-Anstalt(王立特権光学工業研究所)を開設した。ドゥンカーは多機能研磨機を発明し、特許も取得した。この発明により、必要なレンズの生産が大幅に簡素化され、後に彼が採用した高校を卒業したばかりの若者でも、大きな肉体的な負担なく生産に従事できるようになった。多重研磨機と彼の研究所の発展(特に息子のエドゥアルトと孫のエミール・ブッシュによっても推進された)は、ラテノーを光学産業の拠点として発展させる基盤となり、同市に「光学都市」という名誉ある称号を与え、それは現在も続いている。

1820年、アウグスト・ドゥンカーは恐らく腸チフスと思われる神経性の熱病にかかり、1843年6月14日に亡くなるまで、ラーテナウで精神錯乱状態のまま暮らした。 アウグスト・ドゥンカーの病後、息子のエドゥアルトが23歳で父の事業を引き継ぎいだ。 1845年、エドゥアルトは経営を甥のエミール・ブッシュに任せた。両者は、会社を競争力のある状態に保つために、構造的および技術的な変化を余儀なくされた。(独語 Wikipedia

Dunckerのモニュメントの後ろには弧を描くような形の集合住宅が広がっています。

↓↓上から見るとこういう感じです

★★★ ラーテノウ Rathenow -3- に続きます

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