- 2021-12-1
- ブログ
ここまで何度か出てきた「ドェーミッツの要塞・砦(Festung Dömitz)」について纏めておきます。形は「函館五稜郭」に似ていますが、もっと素朴な印象です。どちらが元祖・本家かといえば?・・・言うまでもないですね(笑)独語Wikipediaを翻訳しておきます。
1894年まで軍事用途として
13世紀には、エルベ川に守られ、洪水のない場所に丸い城が建てられた。建物はほとんど知られていないが、石と煉瓦で造られていた。中庭の発掘調査では、円形の塔の基礎が発見された。現在の博物館の建物の下部には、宮殿や数メートル西に立っていた塔の建築物の物質が残っている。
メクレンブルク公ヨハン・アルブレヒト 1世は、1559年から 1565年にかけて、メクレンブルク南西部の国境とエルベ川の横断路を確保するために、メクレンブルク最大の要塞を建設させた。全体の計画は、イタリア人のフランチェスコ・ア・ボルナウが担当した。
わずか 6年で建設されたが、そのためにヨハン・アルブレヒト 1世は、周辺地域の労働力不足を補うために、近くに煉瓦工場を建設し、さらにイタリアから石工を雇った。シタデルは五角形の平面で、5つの塁壁がある。堡塁には、「Kavalier(Cavalier)」「Held(Hero)」「Drache(Dragon)」「Greif(Griffin)」「Burg(Castle)」という名前が付けられている(入口ゲートから時計回りに)。すべての堡塁には砲郭(火砲が発射される要塞化された砲の据え付け装甲構造)がある。堡塁の間にある中庭の高さは最大で 9メートル。
三十年戦争では、この町と要塞は、ティリーやヴァレンシュタインなど様々な軍勢の拠点となった。1635年、ドェーミッツの戦いで町全体が焼き払われた。遅くとも 17世紀中頃からは、前面に堀を設けた城壁で町を固めていたことが、当時の都市計画図からも読み取れる。1705年以降、要塞は精神病院や刑務所としても使用されていた。1719年にはカール・レオポルド公がドェーミッツに政庁を移したが、1723年には町をを去らなければならなかった。1755年には、刑務所と精神病院がさらに拡張された。18世紀後半、グライフの堡塁は大幅に改築された。そのケースメイトには、両脇に 3つの銃座が設けられ、入り口は荷車が直接入れるようになっていた。1809年、ナポレオンに対する解放戦争の際、ドェーミッツで戦闘が行われた。その過程で、要塞と町はオランダとフランスの軍隊によって砲撃され、敵の手に落ちた。1830年、精神病院はシュヴェリンに移された。低地ドイツ語を使う作家のフリッツ・ロイターは、1838年から 1840年までの幽閉の最後をこの要塞で過ごし 1840年 8月 25日に釈放された。彼は著書『Ut mine Festungstid』(『私の要塞時代から』Hochdeutschでは Aus meiner Festungszeitとなるんですかね・・・)の中で、この時のことを報告している。1843年以降、この刑務所は民間人の受刑者には使われなくなった。
大公フリードリヒ・フランツ 2世の政権下で、19世紀半ばに要塞は再び大規模な改修が行われた。堡塁や中庭の外壁は、修理や部分的な改築が行われた。Dracheの堡塁では、城壁の側面が急な土塁に置き換えられていた。そのため、防塁と中庭の間には、跳ね橋と防壁を備えた中間の壁が作られ、防御力を高めた。1870年にエルベ川に鉄道橋が建設された際、ベルリン・ハンブルガー鉄道会社は、敵のエルベ川渡河に対して橋を防御できるように、「ドェーミッツのエルベ橋は、城塞から 2,000歩以上離れてはならず、Hämertenの橋と同様の旋回橋を含まなければならない」という建設条件を与えられていた。さらに、2つの橋脚には解体用の地雷が用意され、橋の両側へのアクセスは警備用詰所を備え弧を描くような角度で確保されることになっている」。
1894年、軍はこの砦の使用を終了した。
1894年以降は民間用途として
要塞が放棄された直後、一部の建物はアパートに改築されたり、行政機関の建物として使用された。かつての刑務所と精神病院の建物は解体され、その石材は要塞の入り口にあるアクセスブリッジの代わりに堤防を作るのに使われた。1920年代には、中庭にはイベント会場が作られた。
1953年、司令官の官舎だった建物にデミッツの地域と町に関する博物館が開設された。ドェーミッツは東西ドイツの国境に近いため、制限区域にあり、城塞には外国人が立ち入ることはできなかった。これが変わったのは、1973年に「kleiner Grenzverkehr」が導入されてからである。
(■ 註:kleiner Grenzverkehrとは、東西ドイツ国境に隣接する特定地域の住民が「比較的簡単な手続き」で、相手側の特定地域を訪問できる制度のことです。概念としては戦前からあったようですが、東西ドイツの国境隣接地域に導入されたのは 1973年でした。しかし東独側に於ける実態は「比較的簡単な」とは名ばかりで、うっかり申請すると国家保安省(Stasi)からマークされ、許可されないばかりか、その後職場で疎外されたり、子供の上級学校への進学が出来なくなったりということがあり、活発な往来には程遠かったのです。)
中庭、郷土資料館、ブルクの砦が再び一般公開された。1975年、この城塞は保存命令を受けた。一方、エルベ川側の国境の要塞はさらに拡張された。その際、斜堤は部分的に平らにされ、塁壁の窓はレンガで塞がれていた。そのため湿気が増え、換気ができずに石積みに霜害が生じていた。
統一後、城塞は改修され、現在は博物館や文化イベントの会場として利用されている。その間、要塞の砲郭を除くすべてのエリアは、再び訪問者に開放されている。地元の歴史博物館では、要塞とデミッツの町の歴史に関するいくつかの展示が行われている。塔にはギャラリーが併設されており、様々なアート作品が展示されている。中庭の野外ステージでは、コンサートや演劇が定期的に開催されている。2013年には、アクセス用の堤防が再び跳ね橋付きの橋梁構造に変更された。2015年には、Greif要塞(5つある突起状の部分のひとつ)の展示室で「Im Grunde」の展示が開始された。 この展示室は、武器庫とともに、ユネスコ生物圏保護区のビジターインフォメーションセンターの一部となっており、2013年 4月から要塞に設置されている。
↓↓ 上空からのドローン動画ですが、要塞だけではなく町の上空も撮影しているので、要塞と町の位置関係がよくわかります。2:18あたりからご覧ください。それまではドローンのセッティングが映っています。