誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(65)★★ノイシュトレーリッツ Neustrelitz -6-

★★ノイシュトレーリッツ Neustrelitz -5- からの続きです

Seestrasseにはまだこんな修復がされていない建物もあります。その向かには「Louisenstube」という Gaststätteがあります。

ちょっと休憩してビールでも呑んでいこう・・・室内席もありますが、天気もよく気持ちのいい気候なので外の席に座ります。

さて、この町の章の第一回目で、ロシアの女帝エカチェリーナとなったことで著名なドイツ人女性(ツェルプスト候女カタリーナ)を引用して「まあ、そこまでのレベルではありませんが、それとは別の次元で国民的ヒロインとなった女性のルーツがここにあるのです。この女性、誰かご存知でしょうか?流石に日本の高校の世界史教科書ではそこまでは言及しないか(笑)と伏線を敷きました。それを回収します・・・いやあ、かなりの大物なので深みにハマってしまいそうでコワいんですが(笑)

店の名前にもなっている、このメニューの表紙に描かれた女性は「ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ」(Luise von Mecklenburg-Strelitz)は、メクレンブルク=シュトレーリッツ公国の公女であり、プロイセン王国の王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚し、その後 1797年に彼がフリードリヒ・ヴィルヘルム3世としてプロイセン王に即位したことにより、プロイセン王妃となったのです。

ルイーゼ王妃の役割や国民的人気を獲得した背景をどのあたりから説明し始めるか?・・・これは結構悩ましい問題です。プロイセンの王妃になったわけなのでプロイセンとはどういう国だったのかへの言及は必要だろうし、当時はナポレオンが欧州全土を巻き込んでの戦争で引っ掻き回しており、プロイセンもナポレオン軍と戦っていたのでそれにも言及・・・と考えると、その引き金となったフランス革命にも・・・また、ルイーゼにはフリーデリケという妹がいて、実はルイーゼが結婚した王太子の弟と結婚し(兄弟と姉妹が兄・姉と弟・妹同士で結婚し)その後、英国王室を巻き込んで数奇な運命を辿る話も・・・その他にも、いろいろなところに話の分岐点があって、二次元的な記述では収拾が付かなくなりそうです。

というわけで、出来る限り魔物が潜んでいそうな魅力的な枝葉末節には目を瞑って(後で補足して魔物と遊んであげることにして(笑))大筋をまず掴むことにします。

1.ルイーゼの出自のメクレンブルク=シュトレーリッツ家について

日本語 Wikipediaのこちらのページにメクレンブルク家の家系図があります。そもそもドイツ諸侯の名前は「カール」「ヴィルヘルム」「ル-ドヴィヒ」「ハインリッヒ」「フリードリッヒ」あたりの組み合わせにX世が付いているのが多く、これだけで頭がクラクラします(笑)

が、まあそれはさておき、家系図を下にスクロールしていくと、その真ん中あたりに「アドルフ・フリードリヒ 1世シュヴェリーン公」という薄青の箱と、「ヨハン・アルブレヒト 2世ギュストロー公」というピンクの箱との分岐があります。ところがピンクの箱はその後2代で絶えているのが確認できます(赤い線で表示)。当時の諸侯の家系は男子相続・長子相続が大原則だったので、この家系に限らず至る所でこういうことが起こっています。

そして、その後はギュストロウ公の領地をシュヴェリーン本家とノイシュトレーリッツ分家で再分割し、ここにメクレンブルク=ノイシュトレーリッツ家がスタートします(緑の★で表示)。以降は薄青の箱がシュヴェリーン公(地図の薄茶が領地)、薄緑の箱がノイシュトレーリッツ公(地図の黄色が領地)として、メクレンブルクを分割・共同統治していくのです。こちらの日本語 Wikipediaにメクレンブルク家の君主一覧があります。

このシュトレーリッツ家の4代目「カール 2世は生涯に2度結婚している。最初の妃であるヘッセン=ダルムシュタット方伯子ゲオルク・ヴィルヘルムの娘フリーデリケ・カロリーネ・ルイーゼ(1752年 – 1782年)とは1768年9月18日ダルムシュタットで結婚し、彼女との間に以下の 4男 6女をもうけた」・・・その6番目の子供がルイーゼです。



フリーデリケと死別すると、カール2世は彼女の妹であるシャルロッテ(1755年 – 1785年)と結婚した。後妻との間には以下の1男をもうけた。

さて、次回はいよいよナポレオンとの対峙というハイライトですが・・・ど~なることやら!収拾がつくのかな(笑)

★★ノイシュトレーリッツ Neustrelitz -7- に続きます

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