誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(65)★★ノイシュトレーリッツ Neustrelitz -7-

★★ノイシュトレーリッツ Neustrelitz -6- からの続きです

2.プロイセン王国

今回はルイーゼの嫁入り先のプロイセン王国の話から始めます。領土の面積だけから見ても、かなりな玉の輿だったと想像されます。以前にも書きましたが、1871年に成立したドイツ帝国はフランスのような中央集権国家ではなく、神聖ローマ帝国以来の領邦国家の集合体としての連邦国家ですた。とはいえ領土の大きさからも実力的にもプロイセン王国が盟主でした。

プロイセン王国自体は 1701年に「ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は1701年1月18日、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセン王国の初代君主フリードリヒ1世となった」ことで誕生します。細かいことを言えば、この時はまだ「プロイセンの領土内だけで王と名乗ることを許された König in Preußen」であり「プロイセン国王 König von Preußen」を名乗れるのは4代目以降ですが・・・あ、ここで深入りするとハマるので割愛します(笑)

領域はホーエンツォレルン家の世襲したブランデンブルク選帝侯国(厳密な意味ではブランデンブルクその他の帝国内の領地は王国には含まれない)と旧プロイセン公国、そのほか若干の各地に散らばったいくつかの小さな領地を合わせたものだった。これらばらばらの領土は防衛に不利なこと甚だしく、プロイセンを守ることはすなわち、これらをつなぎ合わせるための不断の膨張を意味していた。

歴代の国王は地理的な統合を求めて相続・侵略を繰り返していくことになる」のです(日本語 Wikipedia)

一般には強大な王国・優秀な官僚・精鋭の軍隊・秩序の徹底・・・などがドイツ人のステレオタイプ的イメージと重なるプロイセンですが、最初からそうであったわけではありません。

特にルイーゼが結婚した6代目の「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(右の肖像画)の時代はプロイセンにとって危機の時代だった。

消極的で優柔不断な国王は暗愚にして軍隊は旧態依然、意気揚がるナポレオン軍にかなうはずもなく、1807年ティルジット条約によってエルベ川以西の領土は全て失われ、領土と人口は約半分になった」という状況だったのです(日本語 Wikipedia)・・・玉の輿だと思ったら、散々な言われようですね(笑)

3.フランス革命、ナポレオンとナポレオン戦争

かなり力は衰えていたとはいえ、神聖ローマ帝国体制が維持されていたドイツ圏やロマノフ家の帝政ロシアとは異なり、隣国のフランスは近代国家への道を一歩先に歩み出します。1789年にはフランス革命で絶対王政のブルボン家の支配を倒し、その後共和制、立憲君主制、皇帝ナポレオンの帝政、王政復古、第二共和政など紆余曲折もありながら、封建的特権の廃止や人権宣言など市民の自由と平等を獲得して近代国家へと進化していくのです。

この過程で 1796年(諸説あります)から 1815年にかけてナポレオンによって欧州各国との戦争が引き起こされたのがナポレオン戦争です。ドイツ語では様々な国が合従連衡を繰り返したことから Koalitionskriegeともいわれます。

最初は「フランス革命を外国の干渉から守る革命防衛戦争として始まったが、しだいに「革命の理念の拡大」のための戦争、一面では侵略戦争へと変質した。さらに1812年のモスクワ遠征失敗を境にナポレオンの帝国防衛戦争に転化した。

戦争をつうじてヨーロッパの封建体制を崩壊させ市民社会の拡張をもたらしたが、周辺諸民族を抑圧する結果となった。軍事史には、傭兵に依存した絶対王政期の軍隊から、徴兵制に基づく国民軍を主体とする戦争への決定的な転換をもたらした」(世界史の窓)と総括されています。この過程で 1806年にプロイセンはイギリスやロシアなどと第四次対仏大同盟を組んでフランスに宣戦布告しますが、イエナ・アウエルシュタットの戦いSchlacht bei Jena und Auerstedtで壊滅的な敗戦を喫します。



敗因は装備や軍事技術の差というよりも、旧態依然の意識のプロセイン軍に対して、国民軍としてのフランス軍の愛国心・士気の高さ・・・とされています。これがプロイセンやドイツ諸侯たちの間に「これではいかんな!小さな公国や侯国がチマチマと自己主張しているようでは勝てないな!」という危機感を生み、1848年のドイツ革命を経て 1871年のドイツ帝国樹立に繋がっていくのです・・・が、これはまだ先の話です。

4.ティルジットの和約(Friede von Tilsit)

ナポレオン軍はプロイセンを破った後、図に乗ってロシアの征服も試みますが簡単には行かず、1807年 7月 7日に一旦ロシア皇帝のアレクサンドル1世と、7月 9日にプロイセンと講和条約を締結します。場所は東プロイセンのティルジット(Tilsit、現在はロシア・カリーニングラード州の Sowetsk, Советск)で、チーズの名前としても知られている地名です。

右は「ティルジットの和約を描いたフランスのメダル(1810年代)。ナポレオンとアレクサンドル I世が抱擁している」絵です・・・おいおい、お前らっ!(笑)

これに先立ち、1806年 11月にイエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオンがロシア軍と戦うためにベルリンからポーランドに向かいますが「ルイーゼはナポレオンにロシアとの講和を訴えた。しかし、効果がないとわかるとルイーゼはナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌにとりなしを頼んだ。ジョゼフィーヌはルイーゼのためにナポレオン1世に手紙を書いた。しかし、ナポレオンの返事はように冷たいものだった」(日本語 Wikipedia)

手紙は受け取った。だが、私はなによりも、手練手管をもてあそぶ女性が嫌いなのだ。私は善良で、素直で、温和な女性に馴れているし、またそういう女性が好きなのだ。彼らが私を甘やかすことがあろうとも、それは私が悪いのではなくて、むしろあなたのせいなのだ。私には、善良で、素朴で、可憐な女性でなくては向いていない。そういう女性なら、あなたに似ているわけだから。

1807年7月7日ティルジット条約で、プロイセンは領土の半分を削られた上、兵力を4万2千に抑えられ、賠償金として1億3500万フランを課せられた。このためプロイセンは「これぞ破壊の傑作」と言われてしまった。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は講和会議にも出席を許可されず、メーメル川の岸辺でロシアの将校達の中に混じりながら、にわか雨の中、ロシア外套で寒さに震えながら会議が終わるのを待ったという。

「困り果てたフリードリヒ・ヴィルヘルム 3世は最後の手段として、当時国民に愛国の王妃として絶大な人気と尊敬を集めていたルイーゼを説得し、彼女の美しさにナポレオン1世が心を和らげ、プロイセンとの講和条件を緩めてくれることを期待した。ルイーゼはこの交渉においては、不屈で粘り強く毅然とした態度を見せた。しかし、ナポレオン1世がプロイセンへの要求を緩めることはなかったため、さらに華やかに着飾って甘い言葉を囁いてみたり、涙声で懇願したりもしたが、結局彼の決定は覆らなかった。ただしナポレオン1世はこの交渉でのルイーゼの態度には深い感銘を受け、「美しき敵対者」「プロイセンの雌豹」などと評した」(日本語 Wikipedia)

この時プロイセンが失った領土(薄青)

因みにナポレオン軍はその後 1812年にロシアを攻めてモスクワを占領するも兵糧攻めに遭って敗走し「冬将軍」に敗北、1813年にはライプツィヒ郊外の戦い(諸国民の戦い Völkerschlacht bei Leipzig)で大敗し失脚・・・1815年のウィーン会議でその戦後処理が行われることになります。諸行無常・・・驕れるナポレオンも久しからず・・・

一方、ルイーゼはプロイセン中の愛国者達の尊敬を集め、大敗に苦しむプロイセンの崩壊を寸前で食い止めたとして評価された。ルイーゼは1810年7月19日に肺炎で死去した。彼女の死を、プロイセン国民は大いに嘆いたという」(日本語 Wikipedia)

ルイーゼは 1810年 7月 19日、ノイシュトレリッツ近郊のホーエンツィエリッツ城で肺炎のため34歳で亡くなった。人気があり、非常に尊敬されていた王妃の遺体はベルリンに移され、1810年 7月 30日にベルリン大聖堂に埋葬された。

フリードリヒ・ヴィルヘルム 3世はは建築家ハインリヒ・ゲンツに依頼し、すぐにシャルロッテンブルク宮殿の公園に霊廟を建てた。カール・フリードリッヒ・シンケルもこの仕事に携わり、国王自身も設計に貢献した。建設には、オラニエンブルク宮殿の柱やサンスーシ公園の階段など、他の場所で不要となった資材を使用することができた。そのため、わずか 5ヶ月で建物を完成させることができた。彼はは、シャルロッテンブルク宮殿庭園のモミの木の暗い並木道の先に、ルイーゼのお気に入りの場所を選んでいた。

1870年 7月 19日、夫妻の息子ヴィルヘルム・フリードリヒ・ルートヴィヒ(=ヴィルヘルム 1世)が、母の 60回忌に霊廟を墓参に訪問したのですが、実はその日にプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦がフランスに宣戦布告した・・・所謂「普仏戦争」が始まったのです。この戦争に勝利したことで、ヴィルヘルム 1世はドイツ帝国皇帝として即位することになるのです。宿敵フランス相手に、息子が敵を討ったとみることもできるかも知れません。

↑↑ 1806年 11月 19日、ベルリン宮殿で元老院議員を迎えるナポレオン(ルネ・テオドール・ベルトン作)

↓↓ パリのヴェルサイユ宮殿鏡の間におけるドイツ帝国樹立宣言(1871年1月18日)壇上の髭の人物がルイーゼの息子のヴィルヘルム 1世、段の下の白い服が宰相ビスマルク

・・・以上、長くなりましたが、玉の輿に乗ったはずの美しい公女が、実はダメ男だったダンナを助けてプロイセンの為に献身し、奏功はしなかったもののプロイセン国民からは圧倒的な支持を得て、時の権力者のナポレオンをしても「♬かわいい顔してあの娘、割とやるもんだね~」と認めさせた(笑)・・・そしてその息子は母の死後 60年経ってフランスとの戦いに勝利し、ドイツ帝国初代皇帝に推戴された・・・そんなルイーゼの物語でした。彼女は 1810年、34歳の若さでこの世を去りましたが、200年以上経った今でもドイツ、特にこの地域では国民的ヒロインとして慕われています。深みにハマる魅惑の枝葉末節は次回以降に少しずつ触れることにします。

★★ノイシュトレーリッツ Neustrelitz -8- に続きます

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