- 2024-3-18
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★★ノイシュトレーリッツ Neustrelitz -7- からの続きです
この Gaststätteは「Louisenhof」と称するだけあって、プロイセン王妃となった Louiseや Mecklenburg=Strelitz家のいろいろな情報が壁に掲示されています、
そのなかで英国王室とも親密な関係にあったことを伺わせる記述がいくつかあります。
「英国王妃のお気に入りの兄弟」というポスターですが・・・
家系図をもう一度見ると、ルイーゼの父であるカール2世には兄(アドルフ・フリードリッヒ4世)と妹がいて、その妹は「ソフィー・シャルロッテ」で、英国国王ジョージ3世の妻であることがわかります。
「シャルロッテは6歳上のカールとは生涯にわたって親密な関係を維持し、彼を通じて家の状況を知らされていた。メクレンブルク州立公文書館に保存されているシャーロット宛の 140通を超える手紙は、そのことを物語っている。カール自身や弟のエルンストは、英国にいる王室の妹を訪ねた。彼の結婚の際に彼女が贈ったものもまた、彼女の献身を物語っている。貴重なマントルクロックやウェッジウッドの花瓶などである。どちらの作品もホーエンツィアリッツのルイーゼ記念館で見ることができる。
兄のアドルフ・フリードリヒ 4世(1738-1794)は、フリッツ・ロイターが低地ドイツ語小説『Dörchläuchting』で文学的記念碑を作った人物で、雷雨と女性を恐れていたが、未婚のままだった。そのため、彼は弟のカールをシュトレリッツ家の家系継承者に任命した。カールはハノーファーでイギリス軍の中将を務めた後、1770年にハノーファー軍の最高司令官となり、総督としてハノーファーにおけるイギリス王室の権利を代表した。
カール2世は妻(ヘッセン=ダルムシュタット公女フリーデリケ)が早くに亡くなった後、妹のシャーロットと結婚したが、シャーロットは男児の初産時に産褥熱で亡くなった。二度の男やもめで、未婚の子供たちはダルムシュタットの義母ゲオルゲに託された。彼自身はハノーファーでの軍務を辞し、1786年に本人の希望により、義弟ジョージ3世から野戦大将の位を与えられて引退した。娘のルイーゼは1793年にプロイセンの皇太子と結婚し、1797年にフリードリヒ・ウィリアム3世として即位するとプロイセン王妃となった」・・・などとあります。
さて、次はルイーゼの妹のフリードリケです。こちらは姉のルイーゼとは異なり、三度の結婚をするという波乱万丈の人生です。
最初の結婚は、ルイーゼが結婚したプロイセンの王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムの弟のフリードリヒ・ルードヴィヒ(通称ルイ王子)・・・姉妹が兄弟の姉兄・妹弟同士で結婚するのです。フリードリケが僅か 15歳の時です。
「フリーデリケの結婚生活は新婚当初から不幸であった。ルイ王子は幼い妻よりも大勢の愛人たちとの性生活に夢中だった。夫の1歳年上のいとこルイ・フェルディナント王子は、ルイ王子に対する対抗心からフリーデリケを誘惑して関係を持ち、その情事を吹聴した。1795年、国王がルイ王子をシュヴェートに駐屯する第1竜騎兵連隊の連隊長に任命したため、王子はシュヴェートに赴任した。翌1796年、王子は任地でジフテリアに倒れて急死した。未亡人フリーデリケは3人の幼子を連れて宮廷を去り、ベルリン郊外のシェーンハウゼン城に移った」(日本語 Wikipedia)
・・・しかし、ひどいやっちゃな、オトコって・・・どっちも(笑)
二度目の結婚
1798年、フリーデリケはプロイセン近衛連隊に勤める陸軍少将フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・ゾルムス=ブラウンフェルス侯子と男女の関係になり、妊娠した。侯子はお腹の子を認知し、求婚もしてきた。フリーデリケはこのまま返事を引き延ばせば当然起きうる醜聞を避けるため、否応なく求婚を受け入れた。2人は1798年12月10日に結婚したが、ベルリンにはいられず、1799年にアンスバッハに引っ越した。お腹にいた子は女児で、1799年2月に生まれたが、数か月で世を去った。
ゾルムス侯子は、プロイセン王子の未亡人との情事の結果、そしてそれによって軍人としての栄達が望めなくなったことに深く失望し、アルコールに依存し始めた。彼は1805年「健康上の理由で」退役し、収入も失った。フリーデリケは、義兄のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムから与えられていた年金のみで一家の生活を支えねばならなくなった。ゾルムス侯子の兄が離婚を勧めてきたが、彼女は頑なに応じなかった。
1813年5月、フリーデリケのかつての求婚者ケンブリッジ公爵の兄、カンバーランド公爵アーネスト・オーガスタスが、ノイシュトレーリッツに住むフリーデリケの父カールを訪ねてきた。フリーデリケはこの時カンバーランド公爵に初めて会った。父カールは娘にゾルムス侯子を捨ててイギリス王子と結婚するよう強く勧めた。その後数か月の間に起きた出来事は、フリーデリケに今後の身の処し方を考えさせることになった。1813年10月のライプツィヒの戦いに大同盟軍の一員として参加し勝利したアーネストはそのまま再びノイシュトレーリッツを訪れ、宮廷の人々や同市の住民に歓呼で迎えられた。それと同時に、フリーデリケはプロイセン王に対して、ゾルムス侯子との離婚の申請を出した。関係する各宮廷や一族郎党は皆一様に離婚に賛成し、当の夫ゾルムス侯子までが離婚に賛成した。1814年4月13日の侯子の急死により、難航する離婚調停の錯綜に悩む必要はなくなった。
三度目の結婚
1814年8月、カンバーランド公爵とフリーデリケの正式な婚約が発表された。婚約にはイギリス議会の承認が得られたため、2人は1815年5月29日に結婚式を挙げた。
1837年6月20日、義兄のウィリアム4世が亡くなると、イギリス王位は姪のヴィクトリアが継承した。しかしハノーファー王位はサリカ法に則り女子相続が禁じられていたため、存命する中では最年長の弟カンバーランド公爵がエルンスト・アウグスト1世として継承した。フリーデリケはハノーファー王妃となった。
フリーデリケは1841年6月29日、病を得て急死した。エルンスト・アウグスト1世は宮廷建築家ゲオルク・ルートヴィヒ・フリードリヒ・ラーフェに命じて、妻と自分のための霊廟を建てさせた。この霊廟は後に、ヘレンハウゼンの城内庭園ベルクガルテンにあるヴェルフ霊廟へ移築された」・・・なんとも波乱に満ちた人生ですね!
まだあります(笑)フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm, 1819年10月17日 – 1904年5月30日)は、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の大公(在位:1860年 – 1904年)。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・ゲオルク・エルンスト・アドルフ・グスタフ(Friedrich Wilhelm Karl Georg Ernst Adolf Gustav)です。
「1819年10月17日、ゲオルクとその妃であったヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯フリードリヒ3世の娘マリー(1796年 – 1886年)の間に第二子としてノイシュトレーリッツ(メクレンブルク=フォアポンメルン州メクレンブルク=シュトレーリッツ郡)で生まれた。少年期を当地で過ごした後ボンで歴史を学び、ついで一時イタリア・スイスへ旅行してからプロイセン王国の陸軍に仕官した。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは1843年6月28日にバッキンガム宮殿で母方の従妹にあたるイギリス王ジョージ3世の七男ケンブリッジ公爵アドルファスの長女アウグスタ(1822年 – 1916年)と結婚した。その後彼はオックスフォード大学で学んでいる。
1851年からフリードリヒ・ヴィルヘルムの視力は悪化し、最終的に彼は盲目となった。
1860年にフリードリヒ・ヴィルヘルムは父の死去を受けて大公位に即いた。1866年の普墺戦争において、妃のアウグスタの実家であるハノーファー王国はオーストリア帝国側についたが、フリードリヒ・ヴィルヘルムは中立を保つのが最良であると思いつつもプロイセン王国側についた。戦後メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国は北ドイツ連邦に加盟し、次いで1871年にはドイツ帝国の構成国となった。なおヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行なわれたヴィルヘルム1世の戴冠式に自身は出席せず、太子のアドルフ・フリードリヒを差遣している。
1904年5月30日、フリードリヒ・ヴィルヘルムはノイシュトレーリッツで死去した。大公位は長男のアドルフ・フリードリヒが嗣いだ」
戦前の英国王室はドイツ系の公女や諸侯と婚姻していたんですね!まあ、英国に限らず神聖ローマ帝国以来、ドイツには主権を持った領邦国家が沢山有り、それなりの家柄の諸侯・公女が多くいて「供給基地」のようになっていたということでしょうか・・・
★★ノイシュトレーリッツ Neustrelitz -9- に続きます