誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(38):★★★ドェーミッツ Dömitz -9-

★★★ドェーミッツ Dömitz -8- からの続きです

東西ドイツ国境に直接接していた旧東独側の町に関して、もう一つ書いておくべきことがあります。国家保安省(Stasi 正式には Ministerium für Staatssicherheit(MfS))のブラックリストに載った「思想的に信頼できない人物」やその家族、場合によっては部落ごと国境から遠く離れた内陸部に強制移住させた作戦のことで、1952年と 1961年に行われました。地域によってコードネームはいくつかありますが、一般的には「Aktion Ungeziefer(害虫駆除作戦)」として知られています。

↓↓ これは Manfred Wolterという作家による、Dömitzやその周辺地区から強制移住させられた被害者への聞取調査を基にしたドキュメンタリーですが、裏表紙には「1952年と1961年の2回の大規模な行動で、ドイツ民主共和国は西独との国境地帯で、嫌われていたり、政治的に信頼できない人たちを家や農場から追放した。被害を受けた人たちは、これを「Aktion Ungeziefer 駆除すべき害虫」と呼ばれ、実際そう感じていた。彼らは意図的に犯罪者扱いされ、とても「家」などと呼べないような住居に移された。彼らは、故郷に入ることを罰則を以て禁じられていた。スターリンが全民族に行ったことが、ここでは個々のケースで繰り返されている。家族はバラバラになり、重病人でさえ救われなかった。作家のマンフレッド・ウォルター(Frank.Umweg ins Leben, 1987; Notwehr, 1989他)は、これらの悲惨な運命のうち 8つをテープ起こしで記録した。メクレンブルクの例では、国家による虐待を受けた人々や、自殺を含む人々の人生への深刻な介入を物語っている。」とあります。

実際、この本を読んだ時には「わっ!これってナチスがユダヤ人を強制的にゲットーに送り込んだのと同じやり方じゃないか!」とか、逆に「欧州東部のドイツ人定住地域で、大戦末期にソ連赤軍によってドイツ人一般市民が追放された時のやり方と同じ・・・」と、暗澹たる気分になったものです。

独語Wikipediaの「Zwangsaussiedlungen an der innerdeutschen Grenze(ドイツ国内の国境での強制移住)」という項目を翻訳しておきます。

内地国境での強制移住は、1952年6月に「Aktion Grenze」と「Aktion Ungeziefer」、1961年10月に「Aktion Festigung」と「Aktion Kornblume」として実施された、内地国境の制限区域から政治的に信頼できないと判断された人々を排除することを目的とした 2つの大規模なドイツ民主共和国の作戦である。

Aktion Ungeziefer

「Aktion Ungeziefer(害虫駆除作戦)」とは、ドイツ民主共和国国家保安省(MfS)が準備し、人民警察(Volkspolizei)が実行した強制移住作戦のコードネーム(Aktion Grenze、Aktion Gも使用)で、1952年 5月から 6月にかけて、国家の指導部が「政治的に信用できない」と判断した国民を、家族とともにドイツ国内の国境から内陸部に強制的に移住させたものである。この行動の根拠ときっかけとなったのは、1952年 5月 26日に閣僚会議で可決された「ドイツ民主共和国とドイツ西部占領地区との間の境界線における措置に関する条例」である(ドイツ民主共和国の法律公報(GBl.)第1号)。1952年5月27日の65号(発行日)、405ページ)公式には、ドイツ国内の国境の「強化」が目標として挙げられていた。この行動を主導したのは、ドイツ民主共和国首相の国務長官で、元テューリンゲン州首相のヴェルナー・エッゲラート(Werner Eggerath)であった。

テューリンゲン州の内務大臣兼臨時首相のウィリー・ゲプハルト(Willy Gebhardt)は、テューリンゲン州で「Aktion Ungeziefer(害虫駆除作戦)」を実施する責任者だった。テューリンゲン州の SEDの州副委員長兼州書記であったオットー・フンケ(Otto Funke)に宛てた彼の手書きのメモには、その過程で国境地帯からドイツ民主共和国の内部に強制的に再定住させられる人々の数について、「オットー、この数字は今、ケーニッヒ元帥から私に伝えられたところだ。それは委員会が害虫を駆除した結果だろう」と書かれており、それはドイツ民主共和国の指導者の非人間的な、あるいは非人間的な見方の表れだと言われている。

Aktion Festigung/Kornblume

エアフルト地区では「Aktion Kornblume」、マクデブルク地区では「Aktion Neues Leben」、スール地区では「Aktion Blümchen」、カール・マルクス・シュタット地区では「Aktion Frische Luft」、ゲラ地区では「Aktion Grenze」、ロストック地区とシュヴェリン地区では「Aktion Osten」といったように、各地区の作戦指揮官によって様々な呼び名が付けられた同様の行動が 1961年 10月に行われた。

実行

「政治的信用できない」という評価は恣意的に行われることが多く(場合によっては隣人の糾弾によっても行われた)、西側に接点のある市民、教会信者、NSDAPやその支部の元メンバーだけでなく、国への納入義務を果たさない農民や、何らかの形で国に否定的な発言をした人も強制移住の被害に遭ったという。中には村全体が反対して、補強部隊の増援を得て数日遅れで漸く強制移住が実現したケースもあった。被害者は、文字通り荷物と一緒に鉄道の貨車に乗せられ、目的地も知らずに出発したと語る。到着すると、奪われたものには全く見合わないアパートや家が割り当てられていた。

Aktion Ungezieferは、ドイツ連邦共和国との一般条約締結後に行われ、新しいドイツ民主共和国の国境体制を確立するために、1961年 8月 24日の居住制限条例に基づいてAktion Kornblumeが行われた。新しい居住地では、近所の人たちから「お前は犯罪者だ」と言われ、当初は普通の社会生活を送ることがでなかった。一方、被害を受けた人々にとっては、強制的な移住は、平和を確保するための必要な措置として正当化されていた。これらの嘘の目的は、強制移住政策の政治的理由を隠すことにあった。国境地域からの強制移住に関連して、6人の自殺者が出たという証拠がある。

歴史家は、「Ungeziefer」(1952年)と「Festigung」(1961年)の措置で、合計 11,000人から 12,000人が再定住し、約 3,000人がドイツ民主共和国から逃れることでこの措置を回避したと考えています。1952年6月にビルムートハウゼン(Billmuthausen)から34人が、1961年10月にボェーゼッケンドルフ(Böseckendorf)から 53人が共同で逃亡したことはセンセーションを巻き起こした。両地はテューリンゲン州にある。ドイツ民主共和国で行われた強制移住によって避難した人々への補償が行われていないことについて、何度かメディアで議論された、」

↑↑ そもそも東西ドイツ国境の東側はこういう構造をしていました。西独側には国境に関する構造物は一切無く、東独が構築した国境フェンスが見えるだけです。しかしこのフェンスは「最後の砦」というべきもので、事実上の国境封鎖設備はフェンスから約 5km東独側に設けられた「Schutzstreifen(zaun)」だったのです。本当はこの 5km幅の地域は無人化したかったと思われますが、全長約 1,400kmもあった東西ドイツ国境に沿った地域の全ての村や部落の家屋を撤去し住民を強制移住させることは無理があったのでしょう。

そこで、思想的・政治的に不穏当とされる人物やぞの家族のみを強制移住させ、残った住民は徹底した管理下に置くという施策で妥協したものと想像されます。この 5km幅の地帯は Sperrgebietと呼ばれ、その中に住むことを許された住民を訪問するには、当局に事前の申請・許可が必要で、住民も「いつ何処の誰が来たか」を全て記録し、定期的に当局の査察を受ける必要がありました。↓↓こういう記録簿です。

↓↓ 国境フェンスの約 5km手前に設けられた Schutzstreifenの検問所跡

↓↓ これは Dömitzの少し下流で、西側の展望台からエルベ川越しに東独方向を眺めたものですが、一見長閑に見える川沿いの農家の前には、越えてはならない国境の金網フェンスがあり、横には西側からの侵入を防ぐのではなく、東からの逃亡を防ぐための監視塔が立っているという・・・思えばシュールな風景です。そして、ここに見える家屋の住民達のうち、思想的に怪しいとされた人達は既に強制的に移住させられ、ここに残った人達は厳重な監視下に置かれていたのです。

★★★ドェーミッツ Dömitz -10- に続きます

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