誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(38):★★★ドェーミッツ Dömitz -10-

★★★ドェーミッツ Dömitz -9- からの続きです

東西ドイツ国境のことを書き始めると止まらなくなりますね(笑)Dömitzの国境関連でもう一件だけ、書いておきます。それは Dömitzの旧市街から 7kmほどエルベ川の下流の方角に下ったところにある Dömitz市の地区のひとつ Rüterbergについてです。ここは 1989年 11月 8日、あの誰も予想していなかったベルリンの壁が突然なし崩し的に崩壊する前日に、なんと共和国として独立宣言をしたのです。

↓↓ クリックすると拡大します。Rüterbergという集落の境界が道路に沿って複雑な形をしています。

独語Wikipediaによると:

もともとヴェンディッシュ・ヴェーニンゲン(Wendisch Wehningen)と呼ばれていたこの村は 1340年に初めて文書に言及された。 1896年と 1903年には、東端に 2つの煉瓦工場が建設された。1938年、国家社会主義者による地名のドイツ語化の過程で、コミュニティはリューターベルク(Rüterberg)と改称され、戦後も元の名前に戻ることはなかった(後註参照)。 第二次世界大戦の終わりには、ソ連の占領地域にあったリューターベルクは、イギリスの占領地域との国境の村となった。ドイツ民主共和国が建国されてから、1952年以降、国境警備の対策がとられた。特に、制限区域が設定され、パスが義務づけられ、エルベ川沿いには国境フェンスが設置された。1952年に行われた 「Aktion Ungeziefer」では、数家族が内陸部に強制的に移住させられた。1961年「Aktion Festigung」の一環として、26区画の土地が平らにされ、エルベ川沿いの国境の砦が強化された。

こういう金網フェンスで村全体が囲まれていた

通過用パス(Passierschein)

1966年には、ドイツ連邦共和国とイギリス軍が、エルベ川の全幅に対する西側の主権を主張するために、一方ではイギリスの船とヘリコプター、他方ではドイツ民主共和国の国境部隊の船との間で軍事的な対決を行ったゴアレーベンの戦いがあった。一方、ドイツ民主共和国は、「ドイツの国境は川の真ん中を通っている」という立場を主張した。

■ エルベ川の中央が国境だと主張する旧東独は、常時グレーの哨戒艇を走らせて警戒していました。今となっては貴重な動画記録がありますが、このブラウザでは見ることが出来ないようなので、YouTubeからご覧ください。

その後、1967年には、エルベ川に沿って 2つ目の内側の国境フェンスが設置され、リューターベルク周辺にも設置された。村はドイツ民主共和国の領土から切り離されていたが、それは制限区域内の場所には当てはまらなかった。住民は身分証明書を提示して、警備員のいるゲートを通ってしか村を出入りできない。訪問者をそのまま受け入れることはできず、パスが必要だった。午後 11時から午前 5時までの夜間は通過できなかった。自動射撃装置や軍用犬開放装置などが設置されていた。人のチェックを含む国境警備は、ドイツ民主共和国国境部隊の国境第八連隊によって行われていた。1981年にブロダ地区とそれに伴う 2つのレンガ工場と製材所が取り壊された。1980年代半ば以降、訪問者の規制は部分的に緩和され、親族だけでなく、より寛大なパスが発行されるようになった。1988年には、1,100万マルクの費用をかけて内側の国境フェンスを安定させた。リューターベルクの人口は、1961年から 1989年の間に、約300人から150人に減少した。」とあります。

Dorfrepublik Rüterberg

孤立した状況に対する抗議として、住民たちは 1989年 11月 8日に「リューターベルク村共和国」を宣言し、長年にわたるドイツ民主共和国による屈辱的な状況に対する反対の意思を示した。そのきっかけは、工事のために村の入り口の門が塞がれたことだった。スイスの原型となるカントンをモデルにした村の共和国構想の生みの親は、数年前からスイスの歴史と村落共同体を研究していた仕立屋のハンス・ラーゼンベルガー(Hans Rasenberger)だった。1988年にドイツ連邦共和国の親戚を訪ねることが許された際には、その機会を利用して西独、スイス、フランスを行き来し、スイスの祝日の祝賀会でリュトリの誓い(Rütlischwur)を聞いた。

ラーゼンベルガーは1989年 10月 24日に住民集会を要請していたが、これも規則に従ってベルリンの国家安全保障省に報告していた。会議は 1989年 11月 8日に開催されることが承認された。公民館には 90人の住民に加えて、ルートヴィヒスルスト地区評議会の代表者、国境部隊の上級士官、人民警察地区事務所長が出席し、ラゼンベルガーが丁寧に作成した文書が提示された。そこには、今後は村の共和国として自分たちで法律を作り、ドイツ民主共和国の指導者の庇護を受けないようにすることが書かれていた。住民は満場一致で村の共和国設立を決めた。そのわずか 1日後にベルリンの壁が崩壊し、1989年 11月 10日からリューターベルクには自由に出入りできるようになった。

Von Bundesarchiv, Bild 183-1990-0529-009 / Wolfried Pätzold / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, ソースはこちら

シュヴェリン:国家と市民の権利が無視されていることを永遠に示すために、ルートヴィヒスルスト地区にあるエルベ川の小さなコミュニティ、リューターベルクの住民たちは、1989年11月8日に宣言された「村の共和国」の地位を維持したいと考えている。左はドイツ、右はドイツ民主共和国という 2つの鉄条網の間に閉じ込められ、22年間、ほぼ完全に孤立した生活を送った。午前 5時から午後 11時までは、パスを提示しなければ村を出入りすることができず、夜は鍵をかけて管理されていた。半年前には門があったのに、今ではドイツ第三共和国への「国境」を示す看板が立っている。
Von Bundesarchiv, Bild 183-1990-0529-008 / Wolfried Pätzold / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, ソースはこちら

By Niteshift – Own work, CC BY 2.5, ソースはこちら

By Niteshift (talk) – Own work (photo), CC BY-SA 3.0, ソースはこちら
↑↑ 村を囲んでいた金網の一部が残されている
← 地名を示す交通看板に「Dorfrepublik」の文字が見える

1991年 7月 14日、リューターベルクは、メクレンブルク・フォアポメルン州の内務大臣から、すべての村の標識に追加で「Dorfrepublik 1961-1989」(2001年からは「Dorfrepublik 1967-1989」)という表記を使用する権利を与えられた。国家承認の行為である証明書の授与には、19カ国から 100名の若者が参加しました。この規制は 2002年 10月 21日まで有効だったが、それ以降、村は再び Rüterbergと呼ばれるようになった。」

↓↓ 住人の一人が当時の想い出を語っています

↓↓ 東西ドイツ国境が倒壊した当時の映像記録

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■ Wendischについて
「もともとヴェンディッシュ・ヴェーニンゲン(Wendisch Wehningen)と呼ばれていたこの村は 1340年に初めて文書に言及された。・・・(中略)・・・1938年、国家社会主義者による地名のドイツ語化の過程で、コミュニティはリューターベルク(Rüterberg)と改称され、戦後も元の名前に戻ることはなかった。」という行があります。

「Wenden」とは広くスラブ系の民族を指す古語で、wendischは、エルベ川流域及び以東のスラブ系の地名や文化を表す形容詞として今日でも多く使われています。

私が住んでいたニーダーザクセン州のリューネブルクの近くにも「Deutsch Evern」「Wendisch Evern」という地名が対になってあります。起源を辿ると、間にイルメナウという川が流れており、その西側はザクセン人(ドイツ系)、東側にはヴェンド人(スラブ系)が定着して集落となったようです。

Wendischと付く地名や、Deutschと Wendischが対になった地名は他にも多数あります。

ナチスはスラブ人を「Untermenschen(下等人間)」などと称していたので Wendisch Wehningenという地名を Rüterbergと改称させたとありますが、今日でも Wendischと付く地名が多く残っているところを見ると、全国的には広まらなかったか、戦後に元に戻されたものもあったと思われます。

★★★ドェーミッツ Dömitz -11- に続きます

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