- 2020-1-12
- ブログ
ゲルリッツ Görlitzの市内を歩きます。
駅から Berliner Strasseを通って市内中心部に向かいます。この町に限ったことではないのですが、鉄道の役割の低下と共に駅は寂れ、かつては栄えていたと思われる駅前も寂れていく傾向にありますが、特に旧東独ではその傾向が強いように見えます。
ゲルリッツは、かつてはザクセンのドレスデンや首都のベルリンとブレスラウ(Breslau ポーランド語で Wrocław)を初めとするシュレジエンの諸都市、ボヘミアのプラハなどを結ぶ鉄道の結節点(Knotenpunkt)の役割を果たしていましたが、ナイセ川がポーランドとの国境になってしまったことでその役割が大きく低下しました。加えて、自動車と道路の発展により鉄道そのものの役割が低下し、駅前の立派な建物群には入居者がおらず廃墟化寸前になっています。
旧東独を列車で移動していると、一部の大都市を除いては、そもそも駅は町の中心に作られた訳ではないのでそれが無人となり、売店も閉鎖され、駅前は寂れ、小さな駅は廃墟化が進み悲惨な状態になっている・・・そんなところを数多く見かけます。ゲルリッツは幸いにしてそこまで酷い状態ではないですが、駅前の建物は残念な状況です。誰か、この駅前一帯を再開発に投資しないかなあ…
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トラムが走るベルリナー(ベルリン)通りを歩いて行くとだんだん賑やかになっていき、普通に経済が回っている町らしい感じがしてきます。やがて噴水のある公園に到達するとそこが Postplatzです。
Muschelminnaと呼ばれるこの銅像のドイツ語 Wikiはこちらです。1887年に建てられた銅像は、戦時中に金属供出のため撤去され溶かされましたが、まだ東独時代の 1988年に再建が決まり、ドイツ再統一後の 1994年に完成しました。最大のスポンサーは貝がシンボルの石油会社シェルだそうです(笑)
煉瓦造りの裁判所の建物の壁にプレートが嵌められています。「解放広場:この場所に、1945年の春、ファシストの殺人軍団によって殺害された兵士達と市民達が横たわっていた。死者は生者にそれをリマインドする」・・・ファシストの(ファシスト的な)faschistischというのは旧東独の独特な表現で、ソ連赤軍によって解放されたという意味の広場の名前と共に旧東独時代に作られたプレートであることが分かります。
この Postplatz(郵便局広場)の独語版 Wikiによれば、1958年には「Platz der Befreiung」と呼ばれていたようです。戦後、社会主義政権時代に Karl-Marx-Strasseとか、Rosa-Luxemburg-Platzなどに改称された道路や広場の名称をドイツ再統一を機に戦前の名称に戻す動きの中で Postplatzに戻されたということでしょう。
対をなすように「1953年 6月 17日、ゲルリッツとその周辺で起こった民衆蜂起の犠牲者達に想いをよせて」というプレートが埋められていますが、旧東独時代には、この日は歴史の教科書から抹殺されていたので、ドイツ再統一後に先の「解放広場」とバランスをとるように後付けされたものと推測されます。旧西独とは違って旧東独の各地にこういう現代史の痕跡が残されており、それを見つけるのも楽しみの一つです。
道なりに歩いて行くと、フラウエン教会(Frauenkirche)があり、その向こうにアールデコ様式の建物が見えてきます。