誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(27):クヴェートリンブルク Quedlinburg -9-

クヴェートリンブルク Quedlinburg -8- からの続きです

ブラジイ通り Blasiistraße 14には、この町で唯一のビール醸造所があります。Brauerei Lüddeで、創業は 1807年、旧東独時代には一旦廃業を余儀なくされますが、東西ドイツ統一後に以前のオーナーの姪の家族が再興し発展させたとのこと。「Lüdde Bräu」のロゴが何となく旧東独っぽいなと感じるのは気のせいか?(ここ、分かる人だけに分かってもらえれば(笑))

Quedlinburg Brauerei Lüdde.JPGCC BY-SA 3.0, Link

Wikipediaによれば「1807年、現在の醸造所のある場所に、Schreibersche Braunbierbrauereiが設立されました。同社は 1876年にシェーニンゲンの Carl-Friedrich Lüddeに買収されました。彼は今日も残っている建物を建てました。建物の碑文は、1876年に建設された年を示しています。ブラウンビールが醸造されました。馬とカートでビールを届けられたお客は、未熟なビールを水と混ぜて、フリップトップのボトルに入れ、数日間熟成させなければなりませんでした。熟していないビールの消費が胃の問題を引き起こしたので、Pubarschknall(パブのケツ叩き(笑))という名前が人気になり、今日でもその名前のビールが販売されています。

醸造所は拡大し、1930年代に半径約 60キロメートル以内の顧客に供給するようになりました。顧客は、マクデブルクとノルトハウゼン、およびアイヒスフェルトにまで及びました。 4台の馬車と 14台の小型トラックが配達に使用されました。

第二次世界大戦中、生産は中断を余儀なくされました。Georg Lüddeは 1945年秋に生産を再開しました。しかし、売上高は減少しました。システムは近代化を必要としており、より近代的な飲み物が市場で求められており、東ドイツの民間企業の経済情勢は不利でした。65歳のとき、Georg Lüddeは 1966年 10月 1日に操業を停止しました。

1989年の政治的転換期(die politische Wende:旧東独の崩壊・東西ドイツの統合)の後、Georg Lüddeの姪の家族は、傷んでいた醸造所の建物を買収しました。それはパブを併設した醸造所に変えられました。中庭はヴィルヘルム時代のスタイルで建てられ、お客を収容できるように改装されました。2台のデバイスの醸造装置もそこに設置されました。貯蔵室は現在、かつての馬小屋に収容されています。

上面発酵の茶色のビール Pubarschknallに加えて、ピルスナービール、黒ビール、ボックビール、小麦ビールも醸造されています。

複合施設にはホテルとビアガーデンもあります。「Zum Brauhaus」ホテルは、Blasiistraße13、Carl-Ritter-Straße 1に隣接する土地を利用しています。」という経緯で今があります。







クヴェートリンブルク Quedlinburg -10- に続きます

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